古代(律令時代)

日本の歴史がはっきり整い始めるのは、西暦645年、大化の改新からと言われています。

この年から、元号も大化元年とつけられるようになり、律令が整えられ、七道(山陽道・東海道・東山道・北陸道・山陰道・南海道・西海道)が定められ、国・郡・郷が成立しました。

「山陽道」は、もともと行政区の名称でしたが、しだいに道の名に置き換えて使われるようになりました。政治の中心である近畿大和から、外国との交流の拠点である西海道大宰府までを大路(たいろ)として役人などの往来のために整備され、その後中世には戦略的に道路整備がなされました。

「安芸国」は、律令制のもとで、山陽道八国の一つとなりましたが、それ以前からかなり定着していたと考えられます。ただし、その頃はまだ国境はあいまいで、正式に小瀬川(大竹川)が安芸と周防の国境と定められたのは、734年だと言われています。

国には郡が置かれ、郡はいくつかの郷(里)に分けられました。安芸の国には八郡があり、そのうち、現在の大竹市域は佐伯郡に属していました。また、佐伯郡には、12の郷があり、大竹市域には、山陽道の遠管駅(おがえき)がある遠管郷(おがのさと)があったと言われています。

遠管駅は、当時、山陽道の安芸国の終駅であって、かなり重要な地域であったと考えられます。ただし、遠管駅が実際にどこにあったのか、遠管郷がどの範囲であったのかは、現在のところ正確にはわかっていません。しかし、大竹市域では、遠管郷がしだいにいくつかの地縁的集団に分かれ、村を形成していったと考えられます。