現代(昭和前期)

大竹町・油見村の合併

大正15年(1926年)に大竹村からの分水問題(油見村及び小方村立戸地区への灌漑用水供給問題)が解決すると、大竹町と油見村の合併についても急速に進展し、昭和4年(1929年)4月1日に「大竹町」が発足することになりました。合併により、旧油見村の所有財産はそのまま大竹町に引き継がれ、その区域は「大字油見」となりました。

 

大倉組山陽製鉄所

大倉組山陽製鉄所が閉鎖された後、工場跡は帝国人絹株式会社の新工場の建設候補地として注目されました。

昭和7年にこの情報を得た大竹町と小方村は、新工場設置に向けて努力し、両議会は工場跡地を無償提供する議決を行い、他に誘致活動をしていた広島市や御調郡三原町(現三原市)などと激しい誘致競争を展開しました。

こうした誘致活動にもかかわらず、大竹市域の敷地は同じく帝国人絹の工場がある岩国に近いため、工場災害の見地から好ましくないという理由で、三原町に建設されることになりました。

これらの工場は現在も岩国市と三原市に「帝人」の事業所として残っています。

 

大竹町・小方村・木野村の合併問題

大竹町と小方村の合併については、これまでも問題となっており、協議されていましたが、これに木野村を含め、3町村での合併が協議されることになりました。

昭和14年(1939年)に第一回の合併問題協議会が開催され、その後再三にわたって協議され、4月16日に次のような合併協定が成立しました。

1.廃置区域 佐伯郡小方村・大竹町・木野村の三か町村を廃し、その区域をもって新たに町を置くこと。
2.新町名選定 大和町と定めること。
3.新役場位置 小方村・大竹町境界と大竹尋常高等小学校との区域に適地を選定すること。ただし、当分の間大竹町役場の位置とすること。
4.財産処分 小方村基本財産中山林全部は小方村を区域とする区有財産とすること。
5.大字名設定 木野村はその区域をもって大字を設定し、小方村・大竹町は現存のとおりとすること。
6.施行予定期日 昭和14年11月3日

 

しかし、小方村では以前から合併に反対する空気が強く、反対派は村民大会を開くなど運動を拡大していきました。

小方村当局は既定方針どおりに合併を推進していくため、川手・阿多田島・立戸などで合併懇談会を開催し、地区住民の賛成を求めました。その際も、反対派の運動は激しく、小方・黒川の住民約200人が合併反対の幟旗をかかげ、川手地区の飯谷・防鹿方面におもむいて各戸訪問するなど、各地で合併反対の運動を展開しました。

4月25日の小方村の村会においても、合併反対の村民が議場間に集まり、合併反対の幟旗をかかげて気勢をあげましたが、合併の議案は出席議員13人のうち7人の賛成により可決され、広島県に上申されることになりました。

そこで反対派は、広島県に反対陳情するほか、小方・黒川・三ツ石等の区長・組長は辞職し、村行政への協力を断り、さらに合併反対既成同盟会(会員約3,000人)を組織し、各戸には「合併反対の家」という貼り紙をするなど、反対運動はますます強くなっていきました。

その結果、村長や賛成派の人たちは、村から疎外されるようになり、反対派の村民は村が開催する会合にはいっさい出席せず、児童の登校まで阻止しようとする動きもありました。

村会では流血事件が起こる危険があるということで、広島から警察官が出張し、8月にはついに傷害事件が発生しました。また、9月に村会を開催されようとすると、多数の反対派の村民が議場の変更を要求して動かず、賛成派議員を議場から引きずり下ろすなどもあって大混乱となり、警察官が多数出動する騒ぎになりました。

その後、合併を強行する小方村当局は12月2日に突如、川手地区穂仁原小学校において村会を開き、警察官が多数警護する中で、6人の賛成派議員だけで合併に関する広島県諮問の答申案を決議しました。

これを知った反対派の村民は、同日に小方小学校で緊急合併反対村民大会を開き、県・内務省等への陳情を決議し、その後も強力に反対運動を続けることになりました。

こうして、合併問題を巡る小方村の争いは解決の見込みがたたず、加えて昭和16年からは戦争の拡大による非常時に突入したため、ついに3か町村の合併問題はうやむやのまま中止となりました。