近世(戦国時代~江戸時代)

神主家の衰退と大内氏の台頭

室町時代初期から、厳島神主家は安芸国の守護であった武田氏などの有力武士団と領地争いのため対立するようになりました。

そのため、厳島神主家は、周防国などの守護であった大内氏と手を結び、これに対抗しましたが、その後も、領地を取られるようになり、しだいに弱体化していきました。

そして、厳島神主家の神主である興親が京都で亡くなり、その正統が断絶すると、厳島神主家の家臣である佐西郡の武士(豪族)たちは、大内氏に従うようになりました。

その後、大内氏は、武田氏を滅ぼし、安芸国に進出しつつあった出雲の尼子氏などを退け、安芸国の南西部は大内氏が支配することになりました。

一方、安芸国の吉田荘の地頭であった毛利氏は、大内氏と尼子氏に挟まれながら、しだいに勢力を伸ばし、周辺の中小武士団も家臣に取り込みながら、戦国大名として成長していきました。

天文9年(1540年)、尼子晴久が毛利氏の居城である吉田郡山城を攻撃しましたが、当時大内氏の配下であった毛利元就は、これを撃退し、さらにその勢力を伸ばし、瀬戸内海沿岸部まで及ぶようになりました。

 

大内氏の滅亡と厳島の戦い

天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害し、大内氏は事実上滅亡しました。

実権を握った陶晴賢は、大内氏の領地をそのまま引き継ぎ、佐西郡や厳島を支配することになりました。

毛利元就は、陶晴賢の配下となってさらに勢力を伸ばしていましたが、陶晴賢と対立していた石見の吉見正頼が反旗をひるがえすと、毛利元就もついに陶晴賢と戦うことを決心しまし、天文23年5月12日に「銀山」、「己斐」、「草津」、「桜尾」の諸城を一気に攻め、厳島まで占領しました。そして、厳島に宮尾城を築き、陶晴賢を迎え討つ準備を整えました。

この間、佐西郡において、陶晴賢の家臣の宮川房長が、大竹市域を経由して、浅原、津田を経て、軍を折敷畑に進めたので、毛利元就はこれを迎え討ち、勝利しました。

しかし、佐西郡の西部や山間部の有力者は、かつての厳島神主家との結び付きが強い、陶氏を支持したため、毛利氏に対して一揆を起こしました。小方や玖波でも合戦が行われ、玖波では大歳神社の社殿が合戦によって破却されたと伝えられています。

その後、陶晴賢は、自ら大軍を率いて厳島に上陸しましたが、毛利軍の水軍の奇襲に遭い、一挙に制海権を失い、陶晴賢を始め多くの有力武将が戦死し、毛利元就の大勝利に終わりました。

それから、毛利氏はますます勢力を広げ、尼子氏も倒し、安芸・備後・周防・長門・出雲・石見などを支配するようになりました。

大竹市域も毛利氏の勢力下におかれ、陶氏に協力した在地の有力者たちは毛利氏に一掃されることになり、彼らの土地は没収され、新しく毛利氏の家臣や寺社の給地となりました。

資料によると、玖波は厳島の大願寺、小方・黒川は毛利氏家臣の熊谷氏、阿多田島は加屋氏、大瀧(大竹)は児玉氏の給地になったようです。

毛利氏の本拠が吉田から広島に移された天正19年(1591年)には、熊谷氏に変わって、桂四郎兵衛が小方に入り、一帯を支配するようになりました。毛利氏の重臣である桂氏が小方に置かれたことは、毛利氏にとって小方が軍事上・行政上において重要な地域であったからだと考えられます。

 

幕藩体制の始まり・福島正則の統治

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、西軍に味方した諸大名の所領の没収を厳しく行い、領地を東軍に味方した大名に与えました。

毛利輝元は、西軍の総大将であったため、領国8国のうち6国を奪われ、周防・長門に移封されました。そして、安芸・備後には、東軍に味方して功績のあった福島正則に与えられました。

広島に入った福島正則は、まず小方、三次、東城、三原に支城を築くこととし、同時に大規模な検地を行いました。

小方城の築城は、慶長8年(1603年)から始められ、慶長13年(1608年)に完成し、地形が亀が伏している形に似たところから、亀居城と呼ばれるようになりました。しかし、慶長16年(1611年)、理由ははっきりとはわかりませんが、亀居城は破却されました。

また、福島正則は、各郡に郡奉行を置き、庄屋制度を整え、藩政の整備も急速に進めました。そして、毛利氏の遺臣で各地域の武士団には、その地位をそのまま認めて、郷士身分を与えましたが、自らの家臣団には組み入れず、直臣はほとんどを城下に住まわせ、給地との結びつきを絶つことを進めました。これにより兵農分離が完全に行われ、農民は土地にしばりつけられることとなり、近世的な封建体制の基盤が確立されました。

そのため、市域の各村が近世的な村として形成されたのもこの時期です。福島氏の検地によって、各村の境界が明らかになり、各村の農民は年貢の負担や林野・用水の面からも村の結びつきを一層強くすることになり、支配者側も経済的にまとまった村を作る必要性からいわゆる「村切り」政策を進めました。その結果、市域においては、慶長16年(1611年)に松ケ原村が大野村から、元和6年(1620年)には奥谷尻村が谷尻村から独立しました。

このように福島正則は、安芸・備後を統治していましたが、元々は豊臣恩顧の大名であり、徳川幕府にとって好ましくない存在でした。

そのため、洪水によって破損した広島城の城郭の一部を修理したことが徳川幕府の定めた武家諸法度に違反したとの理由により、元和5年(1619年)、福島正則は改易を命じられ、安芸国は浅野氏に与えられました。

 

浅野氏の統治

藩主の浅野長晟は、福島氏が確立した統治制度の多くを継承しましたが、当初から郡ごとに数名の大庄屋を定め、在地の豪農をその役につけて郡政に参加させるようになり、その後も江戸時代を郡制度については通じて何度かの改革がありました。

また、家老の上田重安(宗箇)は、1万石の知行地を与えられ、小方に配備されました。

元和6年(1620年)の知行目録によると、上田氏の知行地は、23か村のち18か村が佐伯郡にあり、残りの5か村は備後国恵蘇郡にあったそうですが、大竹市域はすべて上田氏の知行地になっていました。

その後、寛永11年(1634年)に1万7千石に加増され、給地は36か村になりましたが、佐伯郡では新たに宮内・吉和が組み入れられました。

上田氏が知行地に対してどのような政治を行ったかについては明らかではありませんが、元和5年(1619年)の小方村庄屋孫右衛門に対する覚書によると、藩の政策にしたがって村々の治世は各村の庄屋にまかせ、逃亡した農民を呼び戻して一人立ちできるまで面倒を見たり、知行主の許可なく人足の使用を禁止するなど、農業の促進に努めていたことがわかります。

給地の統治組織としては、知行所奉行・代官・下代等を任命し、その下に頭庄屋・庄屋・与頭(くみかしら)を置き、村々を頭庄屋組合に分けて、貢租関係を主とする政務を行わせていました。このうち庄屋・与頭はほとんど藩の統治組織と重複しており、頭庄屋が割庄屋を兼ねている場合もあったということです。