小島新開

大竹村では、和木村との国境が確定した後、享和3年(1803年)には「中新開」、享和4年(1804年)には「沖新開」と「郷水新開」、文化3年(1806年)には「油見新開」、文政元年(1818年)には「立戸新開」と一気に新開を完成させています。

特に「小島新開」は大事業となり、藩の事業として天保3年(1832年)に完成し、呉・大柿・倉橋などから人々が希望を膨らませ入植してきました。

しかし、塩分の多く含まれた土地で、作物は不作が続き大変な苦労をしました。また、地元の人との軋轢が起こり騒動にいたることもあったようです。そして、この新開地に見切りをつけ、ふるさとへ帰っていった人もいたと言います。