西征日記

「西征日記」の筆者は京都の医師・小石元瑞(天明4年~嘉永2年(1784年~1849年)です。

京都で生まれた彼は、5才から13歳まで大坂で漢学を学び、父・元俊からは漢蘭折喪の医学を学びました。
寛政11年(1799年)には父の江戸行に同行し、江戸で大槻玄沢に入門し、杉田玄白にも学んでいます。
父が開設した医学塾・究理堂を継ぎ、新宮涼庭と共に京都の二大欄医といわれました。
元瑞の医学は「内景を口説き病理を論ずるには、自らオランダの説を主とし、薬治には漢方と蘭剤を雑取する」といい、「みな漢蘭古方に根拠し折衷して成る」という。
究理堂への生涯の入門者は千人に及んだといいます。また、頼山陽や田能村竹田らとも交友した文化人でもありました。

「西征日記」は、弘化2年(1845年)5月、62歳であった元瑞が、帰藩の途上で病状が悪化した久留米侯を伏見で診察したことから、頼まれて診察・治療しつつ、京都から久留米まで同道・陸行した際の手控え(てびかえ=心おぼえに手元に記録しておいたもの)であり、さらにいえば、旅程と見聞と診療の記録を中心とした日記です。

ここにいう久留米侯は、久留米藩(21万石)第10代藩主・有馬頼永(よりとう)(文政5年~弘化3年(1822年~1846年))のことです。
5月に伏見で診察したことから、久留米まで診察・治療を依頼されたましたが、急なことなので久留米侯は先に旅を続け、元瑞は遅れて後を追うこととなります。

日記は5月15日から始まって、4日目に久留米侯の一行に追いつき、6月7日に久留米に到着しています。元瑞は、同地に3カ月近く滞在し9月3日に久留米を発ち海路で大坂に向かい、10月15日に無事に京都に帰りました。

今回の資料は、このうち広島から玖波周辺を含め岩国市御庄までの部分のみを抜粋したものです。

江戸時代を通して、西国街道『玖波宿』に宿泊した記録はほとんどない中での貴重な資料として掲載します。

訳文 伊藤 倫雄
監修 大竹市歴史研究会

 

五月二十六日
 広島 えんこう橋
 京橋 酉時宿于猿楽町有田屋与三兵衛。拝診。微帯数如過日。熱時叉微為頭痛。他無大異。
 煎剤増量。サーレック毎帖加五里。
 発書于京取和名識者録・雑字類編・中国西国門人姓名録・金吾請状寺請・餽侯御休泊記・道中記。
 買股引・脚絆・半纏。自昨日時々心動。

 5月26日
 広島 えんこう橋
 夕方6時、猿猴町有田屋与三兵衛宅に泊る。拝診。脈は従来通り。熱あれば頭痛有。他に変わりはない。
 煎じ薬を増量し、サーレックを毎回五厘ほど足す。
 手紙を京都に出して、和名識名録・雑学類編・中国西国門人姓名録・金吾請状寺請を取り寄せ、侯御休泊記・道中記を送る。
 股引き・脚絆・半纏を買う。昨日から時々心落ち着かず。

 

五月二十七日
 陰。風転西南。従前日 東南風。卯半発。
 遣書于頼余一。聞吉田元善亊。去城四里許故不遣書。
 元安橋 猫屋橋 己斐の長橋 土橋也
 己斐村 右見城址。右見宮島小富士。

   5月27日
 曇り。風は西南に変わる。これまでは東南の風であった。朝7時出発。
 頼余一(頼山陽の子・儒学者)に手紙を書き、吉田元善について尋ねる。城下を四里ばかり出たので投函しなかった。
 元安橋 猫屋橋 己斐の長橋 いずれも土橋である。
 己斐村では右手に城址と宮島小富士を見た。

 

   草津 出村厳島当望見。小島六七。
 井口田尾 嶺上一望。厳島及大小諸島。在眼下。勝不可。
 南渺茫処為九州。今夜所宿亦在玖波亦指示中。
 阿勢婆塩浜新田在直下。

 草津の村を出ると厳島が見えてきて、他に6、7つの小島あり。
 井口峠。嶺の上から一望すれば、厳島や大小の島々を見下ろし、これに勝る眺めはない。
 南に遠く薄く見えるのは九州か。今夜泊るという玖波も指差すあたりにある。
 阿㔟婆塩浜新田も直下にある

 

 八幡橋 西川 土橋 坂田川為本名。
 廿日市 飯于角奈良屋左七。食阿古魚。長扁味可。
 膾青魚亦美。
 大野田尾 鑓出し田尾
 大野 多無花果大樹。甘蔗二三日来見之。余以為蜀黍。今日始知。
 広島以西多不醜者。有カウモリック自生。海相花自生。
 多植楮。充岩國之用也。

 八幡橋 西川 土橋 坂田川為本名である。
 廿日市では角奈良屋左七宅で昼食。阿古(きじはた)という魚を食べた。長くて平らな形の魚で、味は良い。
 なますの青魚もうまかった。
 大野峠は鑓出し(やりだし)峠ともいう。
 大野には無花果の大樹が多い。甘藷(さとうきび)も二、三日來、目につく。その他は蜀黍(とうきび)で、今日はじめて気づいた。
 広島から西は顔立ちのいい人が多い。野ブドウが自生しており、海相花も生えている。
 楮を多く植えているのは、岩国で使用するためのものらしい。

 

 四十八坂 路至険。多頑純大石。常見 巌嶴。相接処隔一里云。
 玖波 暮宿江上三右衛門。少雨 拝診。伴成二。
 脉比昨減数。亦無頭痛。尿不通。尿血亦不多。
 本陣有大松。横二十間。南抽出海上。
 野瀬平八来。伝 馬淵貢内意言。明後二十九日早朝有便。

  四十八坂の路はとても険しくて、丸っこい大石が多い。いつも巌嶴が見えるが,近い所で一里を隔てるという。
 玖波 暮宿江上三右衛門。少雨 拝診。成二(龍野成ニ・元瑞の弟子(究理堂ノ塾頭))を同伴する。
 脈は昨日より減る。頭痛もない。尿は少ない。尿血も多くはない
 本陣に大きな松があり、枝は横に20間もあって海上に伸び出ている。
 野瀬平八(久留米藩主・有馬頼永の腹心の部下)が来て、馬淵貢(久留米藩の重臣・参政)の内意を伝えていうのには、明後29日に都合がつくので、殿の御容態を見たい。

 

 見請御容体。自本月十日奉診断 于伏見後至明日。
 以俗文略抄。請買上好亜刺比亜膠三斤于長崎。
 叉請換乗輿。此事自加古川巳以書嘱于中蔵。二更平八帰。
 秉燭起草且飯且録。四更而寝。
 今日潟下三次。加以険途困阨。

 今日10日に伏見で容態を伺って以来、明日ということになる。
 さしむき伝えておくが、上質のアラビア膏薬(はりぐすり)三斤を長崎で購入するように、叉、殿の駕籠を換えるように、この件は既に加古川から中蔵 に書面で頼んでいることである。夜10時、平八は帰る。
 灯りの下で書き物をし、飲んでは書いて、2時に寝る。
 今日は三度も下痢をした。そのうえ、険しい道には苦しめられた。

 

 五月二十八日 雨 近午大雨 溽熱。
 下卯発。 再校前夜所草付成ニ。先行阻侯儀杖。
 不得先往。遂抵柱野。於是先往。
 緒方 黒川村 古野坂 字未詳。一説苦ノ坂。
 未上嶺石巳異。摂為砂土。明石以西砂交粘埴。
 至于此砂交黒壌砕石。卒為頑純。至于此黒而有堅理。

  5月28日 雨 昼近くに大雨。蒸し暑い。7時が過ぎて出発する。
 前夜に書いた文を再校して成二に渡す。一行より先に行こうと思ったが、行列を組むとの理由で止められ、ついに柱野に至る。ここからは先行した。
 緒方(小方)村 黒川村 古野坂の正確な字は不明。一説には苦ノ坂。
 まだ頂上に達しない内に石が変わっているので、手に取ってみると、明石以西は砂が黒い土や砕石に交じっている。
 石はみな頑純でこのあたりから、黒色に目立った筋が見られる。

 

 中津原
 小瀬 小瀬田尾 嶺之右有黒石脂
 小瀬川 舟渡。因侯命並舟作橋梁。為芸南之界。以下有表木毎一里。
 以石為甃上立表木。表木曰従安芸界小瀬川何里。従赤間関何里

 関戸
 多田村 多田ノカケ 本為絶望。屈曲作道。
 岩田川 舟渡。一名御庄川。錦帯橋之上流。
 御庄 土質似京。芋苗茄子肥。

  中津原
 小瀬 小瀬峠。 嶺の右側に黒くて艶のある石がある。
 小瀬川、舟渡し。藩侯の命により、舟を並べて橋としている。安芸と周防の境である。以下、一里毎に表木がある。
 石を敷き瓦にして、上に表木を立てる。
 表木には、安芸境の小瀬川から何里。赤間関より何里と記してある。
 
 関戸
 多田村 多田の崖は真に絶壁である。また曲がりくねった道である。
 岩田川 舟渡し。一名は御庄川といい、錦帯橋の上流にあたる。
 御庄 ここの土の質は、京都の土に似ていて、芋の苗も、茄子(なす)もいい出来である。