小栗林村と浅原村の山論

小栗林村と浅原村の山論も,記録に残るだけで正保3年(1646年)、貞享4年(1687年)、元禄5年(1692年)、宝永2年(1705年)、享保5年(1720年)、元文4年(1739年)と6回にもおよんでいます。
この両村が争ったのは、札場の谷、倉掛山、五葉松山です。

正保3年(1646年)の山論は、浅原村の多くの農民がこれらの山に入り込み、小栗林村の農民が所有する炭釜を打ち壊したことに始まりました。
このとき、小栗林村ではすぐには報復せず、代官に注進したため、直接的な乱闘はありませんでした。代官は、双方の関係者に出頭を命じ、それぞれの主張を聴取しました。
小栗林村の主張は「この土地は昔から厳島大願寺の御造営山であって、小栗林村の村内にあった。そのため、福島正則の時代にも浅原村の農民はこれらの山に入る際には小栗林村に入山金を納めていた。また、浅野時代になってからは請山(領主所有の山林を村が貸与すること)となり、小栗林村の農民は炭を焼き続けてきた。さらに、寛永6年(1709年)には山役人が山境を設定した際にも小栗林村に属するものとして認められている」というものでした。
これに対して浅原村は「この地は昔は浅原村の地頭の知行所であった。また、浅原村の向かい側に浅原村民が入山しても小栗林村の山稼(山林における稼ぎ)には何も影響しない」と主張しました。

この両村の論争の裁定は、小栗林村の勝利となり、この地は小栗林村の範囲内であることが認められ、争いを引き起こした浅原村の農民の首謀者は牢屋に入れられ、一件落着となりました。
しかし、この裁定においても、山林の境界は明確に決定されず、また両村ともに上田氏の給地であるという理由から山の端々には浅原村民の入山も認められていたので、これらの山の利用を巡り、この後も論争は幾度も繰り返されることになりました。