青木毛保・宮本毛保の争い

青木毛保の争いは、寛永6年(1629年)5月に青木毛保の一部を和木村民が開墾し始めたため、これに反対した大竹村村民がこれをはばんだことに始まります。

この争いは、岩国藩の代官の中島宗味が調停に乗り出し、この土地は安芸分として大竹村に返すことに決まり一応決着しました。

しかし、この調停は和木村民にとって不服であったため、寛永17年(1640年)には再びこの地の利用を巡って論争を引き起こしました。
その翌年、調停役として玖波村と小瀬村らの庄屋も介入しましたが、結局調停はつかず、この地の論争も享和元年(1801年)に国境が確定されるまで幾度も繰り返されました。