戦中・戦後の大竹市域の状況

戦中の状況

大竹市域の生活は軍事施設の立地により、大きな影響を受けることになりました。
まず買収された軍用地は、昭和14年(1939年)から昭和20年(1945年)までに約427,000坪にのぼり、大竹・小方地区では農地が激減しました。また、栗谷町下ケ原(約20戸)では、全地域が飛行場建設のために接収されたため、他地域に集団移住するといった事態も起こりました。
また、新興人絹株式会社の大竹工場も、工場拡張用地約66,000坪が接収され、終戦時に35,000坪が返還されましたが、大きな影響を受けました。

漁業においても、軍事施設の建設にともない、地元海面漁業(主として養殖漁業)が禁止され、加えて昭和17年(1942年)には防諜のため立入禁止区域が大幅に拡大されたために、漁業者は大きな打撃を受けました。

住宅の面では、当初、海軍用の住宅として約200戸を建設しましたが、急激な人口増加によって著しい住宅不足をきたし、大竹市域沿岸部を始め和木村に至るまで町内会を通じて民泊が割り当てられました。大竹町では昭和18年(1943年)の軍人を民泊させている世帯が660世帯を数え、全世帯数の22%を占めていました。
住宅の供給を図るため、住宅営団は町の斡旋により敷地9,000坪を確保して、昭和19年(1944年)に住宅100戸(現在の青木住宅)を建設して、海軍用住宅として提供しました。

このほか、大竹町では馬車40台の徴発を始め、道路の新設、水路の改良など、多額の経費を必要としましたが、軍事施設の設置によって運輸・通信機関や商業は著しく発展し、昭和18年(1943年)の大竹駅における乗客数は、昭和13年(1938年)の約3倍、貨物の取扱量は約10倍に達しました。
また、軍需物資の供給は主として呉海軍軍需部によって行われましたが、生鮮食料品など一部の物資については地元からの供給が許され、大竹市域の業者から納入されていました。ちなみに、大竹町内にあった軍の米麦精白所では、1日に約250俵の精白が行われたそうです。

兵士の入団日や日曜、祭日には旅館・飲食業・娯楽施設が繁盛し、大竹駅や海兵団入口の当たりは非常に混雑したので、翼賛壮年団や警防団が整理にあたり、町も無料休憩所を設けたほどでした。
このように大竹市域は海軍基地として軍の影響を強く受けていました。また、それだけに戦後軍が解体したことによる混乱は大きかったといえます。

 

戦後の状況

昭和20年(1945年)8月15日正午、重大な放送があるということで、国民は不安と緊張の面持ちでラジオに聞き入りました。

それはポツダム宣言受諾の知らせでした。戦争はついに終わりました。

しかし、本土決戦、一億玉砕を合言葉にしてひたすら戦勝への努力を続けていた国民にとって、敗戦の衝撃は大きく、多くの多くの国民は虚脱状態になり、これからの不安に怯えていました。
特に大竹市域は海軍の重要は拠点であっただけに動揺も大きく、各町村はすぐに町村民に対して回覧を発してその動揺を鎮めようとしました。

玖波町で発した回覧の内容は次のようなものでした。
「本日正午ラヂオ放送を以て帝国は遂にポツダム宣言承認の通報を関係各国に回答せる旨御発表がありました。畏くも聖上陛下におかれましては民草の上を思召され有難き勅語を賜りました。町民各位は勅語の御趣旨を奉戴し軽挙妄動を慎み各職域に精励の程を願います。」

ポツダム宣言の受託によって連合国の管理政策は開始されますが、それは日本の非武装化と民主化を目指したものでした。
占領行政は、東京に置かれた連合軍総司令部、各地方に置かれた軍政部が、政府と地方行政庁を通じて施策を実現する方式がとられました。中国地方の軍政部は呉に置かれ、広島県下の連合軍駐屯部隊は、当初米第6軍団第10軍(兵力役10万人)でした。
昭和20年10月に、大竹市域に米軍の進駐が行われ、さらに12月からは在外部隊と一般法人の内地送還が旧海兵団で実施されました。

占領行政として第一に着手されたものは、軍事力と軍国主義的な団体の解体でした。それは、軍の解体、戦争犯罪人の処罰、公職追放、国家主義的団体の解散などの形で次々と実施されていきました。
大竹市域でも、海兵団や海軍潜水学校などの軍事機関の解体が進められ、これらとあわせて各町村の義勇隊、帝国在郷軍人会支部、翼賛壮年団、青年団、婦人会、大日本傷痍軍人会などの解散が行われました。

軍の解体については、昭和20年(1945年)9月2日に降伏文書の調印が行われた以後、大本営の発表によって武装解除が急速に進められました。
大竹市域における大竹海兵団と海軍潜水学校などの軍事機関も必要な人員を除き順次解散を命じられ、1か月後の10月にはほぼ全軍の解散が完了しました。当時、大竹市域の軍関係者は約15,000にのぼり、それらの大部分が大竹駅から帰還したため、大竹駅はこれらの復員兵士でごった返しました。また、復員兵士の中には戦災のために家族や家を失ったものもあり、そのまま大竹市市域に残るものも少なくありませんでした。
また、兵員の解散にあわせて膨大な軍需物資の処理と施設の解体も進められることになりました。軍需物資のうち、民間必要物資については終戦と同時にほとんど無制限に払下げ・売却されることに決定しました。そこで大竹市域や周辺町村にも軍の衣類や食料品などが大量に払下げられましたが、混乱に乗じて不正持ち出しや悪徳業者の不正隠匿が半ば公然と行われる状況でした。その後、9月2日には連合国の指令で、軍用物資の放出が禁止されたので、武器・弾薬類は駐留軍によって処理される一方、その他の物資は海外引揚者用として確保されることになりました。
また、施設についてはすべて国有財産として大蔵省に移管されることになり、11月には施設の引継ぎは完了しました。
その後、これらの施設は総理府、厚生省、建設省に一部移管されたり、中国管区警察学校、国立大竹病院、建設省大竹工事事務所などで使用されました。また、広島高等学校仮校舎、大竹中学校、芸南中学校、県立大竹高等学校などの文教施設や大竹紙業などの民間企業への払下げも行われました。

そして、昭和21年2月、戦時中に大政翼賛会など軍国主義的団体の要職にあった者に対する公職追放が行われ、大竹市域では町村長など数人がこれに該当しました。公職追放とは別に戦時中から引続き町村長や助役の職にあった者も、次の選挙とその後4年間はその職の候補者になることが禁止されました。

連合軍の進駐は、昭和20年(1945年)9月26日に米軍第6軍・第10軍団の先遣部隊が広空港に到着し、10月には約2万人の部隊が呉・広島・海田地区に進駐しました。ついで、駐在範囲は福山・尾道・江田島・忠海地区に広がり、大竹市域にも一個小隊(約30人)が駐屯することになりました。
大竹市域の駐留軍は、元海軍下士官集会所(白石)を本部として、旧軍施設の武器弾薬類の処理や海外引揚所の監視などにあたりましたが、この小隊は昭和21年(1946年)2月にはイギリス軍・オーストラリア軍と交代し、兵員も若干増員されて昭和23年(1948年)には元特攻隊基地でもあった下ケ原飛行場にも分駐しました。
進駐軍の駐留にあたっては、婦女子保護の観点から駐留軍特殊慰安施設が設けられました。終戦直後における広島県の進駐軍特殊慰安施設は合計9か所(慰安婦数は約700人)あり、大竹市域にも1か所設けられました。
また、昭和20年(1945年)12月には進駐軍との折衝にあたる広島県渉外課分室が設置され、大竹町では通訳1名を採用して渉外事務にあたることになりました。
昭和23年(1947年)4月には、進駐軍労務者の就労関係を取扱う渉外労務管理出張所が設置され、就労者の斡旋や給与、労働条件の整備などの事務処理にあたることになりました。当時、進駐軍関係の労務に従事した人数は300人を数え、大竹市域における失業者の救済にも大きな役割を果たしたといわれています。

昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発すると、駐屯部隊のほとんどが国連軍として出動したので、これに代わり岩国航空隊燃料保管部隊がわずかの兵員を旧海兵団内に分駐することになりました。