昭和20年 忘れられない夏の想い出

昭和16年4月、私は「大竹國民学校」に入学した。

新一年生として門を入ると『大竹國民学校』の表札が門柱につるされていた。この時、戦争の恐ろしさは知る由もなかった。子供心にこの戦争の行く末を案じたのは、遊び場が畑に代わり、今思えばあまり意味をなさない「防空壕」を本気で各家々にまた町内会に作っていくのを見たときであった。
また、当時は、配給制度の中におかれ、配給手帳を持って「米屋さん」に並んでいた。日に日に配給量は少なくなり、大所帯を持ちこたえるには大変であった。白いご飯、麦ご飯、日本国民の主食なれどほとんど食べる機会はなくなっていった。代わりにサツマイモが主食で、野菜に覆われた雑炊、お粥といってもお米は数えるほど、今となっては良く健康でいられたと思う。戦争一色の厳しい環境の中で、生きるという精神力が支えた戦中戦後であったのだろうか。

沿岸部の大竹・小方・そして玖波の上空には、米国のグラマン戦闘機やロッキード(当時としては奇妙に見える双胴機)が空高く飛来してくるのを見ていたが、怖さを感じることはなかった。この太平洋戦争が、日本の勝利に進んでいるのか、最早どうすることもできない劣勢に立たされているのか、誰もその答えを知らないまま昭和20年の初夏を迎えた。

本土空襲は日増しに激しくなり、被害状況もまた遠からず流れてくるようになった。

そして、昭和20年5月10日、B29爆撃機が192機の大編隊を組んで、快晴の西日本に向かってきた。午前9時50分には豊後水道を北上し、徳山海軍燃料廠上空に飛来、波状爆撃を繰り返し、なすすべもなく壊滅状態となった。それから、B29は東に向きを変え、岩国陸軍燃料廠に向かっていった。

大竹上空にその姿を現したのは午前11時頃であったであろうか。岩国市小瀬の山谷方向から黒い怪物のようなB29が編隊を組んで現在の大竹市元町上空に差し掛かり、豆粒の様な黒い爆弾を投下し始めた。これが三角形の角度で落下し、陸軍燃料廠、興和石油に着弾した。

その上空にB29は差し掛かり、“タバコをふかしながら”16回の波状爆撃を繰り返し飛び去って行ったと聞かされ、幼きながら悔しさを覚えたことであった。

その後、警戒警報解除の知らせを聞き、近くの小高い光明寺山に駆け登り、大竹そして小瀬川を挟んで和木が眼下に見える丘に立った時、数ある石油タンクの最後のタンクが熱の誘発で爆発したのを見た。

陸軍燃料廠には約4,000人の従業員が働いていたといわれるが、その内およそ300人が亡くなり、興和石油は約2,000人の中から33人の犠牲者を出した、その殉職者の碑が和木町「浄土真宗 養專寺」にあり、時折お参りするが、今でも空襲の物凄さを語りかけてくるようである。
現在も工場近くに「防空壕」が残されているといわれる。

大竹町で大変心の優しい方と評判の人が私の近所にいた。空襲の中で進んで防空壕の中に人々を招き入れ、最後に入ろうとしたらお尻が入らず、爆弾の破片が直撃して殉職されたという話が伝わり、とても悲しかった。
跡形もなく廃墟となった工場地帯では、夕暮れと共に工場内ではまだ燃え盛る火柱や火種が残り、夕闇迫る中不気味な炎が浮き彫りされた。後の原爆投下による爆心地と変わらぬ風景であった。

戦中化には、他にももっともむごい光景があった。旧日本紙業芸防工場(和木町瀬田)の約100メートル上流域の山の窪地に、約4メートル四方、高さ約1メートルの丸太のやぐらを組み、トラックで運ばれた殉職者を数日間にわたり臨時の斎場とし荼毘に付していた。悲しい煙が河口に向かって流れていたのを覚えている。
小瀬川を隔てた広大な軍事施設、大竹海兵団、大竹潜水学校がありながら、1発の爆弾も落とさなかったのは子供心に不思議に思えてならなかった。無差別空襲を続けた米国の作戦の中で「岩国海軍川下飛行場」と共に占領下における重要な拠点として残す意図があったのであろうか。思えばここにも敗軍の悲しさがある。 

昭和20年(1945年)、私は、大竹國民学校5年生になった。

8月6日、朝早く伯父が玄関の戸を叩き「今日は広島へ行くんど、支度をしたか」と父を誘いに来た。「風邪でわしは行かん」と告げた父。「そうか用心せぇ」と伯父は足早に大竹駅に向かい、多くの人たちと2番列車午前6時50分広島行に乗った。

この日は、私たちにとって夏休みの中で幾日かある登校日であった。登校日の目的は「手旗信号」を教わることであったが、多くの友と太陽に黒く焼けた肌を自慢する出会いの日でもあった。友が次第に多く集まり、青く澄んだ夏の空が、朝から大竹國民学校の校庭に反射し真夏の暑さを感じ始めていた。

そして、午前8時15分、東の宮島の方向に身体を向けた瞬間、閃光が目に飛び込んできた。その光は雷の光とは違い、薄青みがかった見たこともない光であった。これが長く歴史に残る日の始まりとなった。

当時、大竹町には高い建物はなく、宮島のコウゴの鼻が目の前に見えていた。山の南の傾斜を火山噴火の如く巨大な真っ赤な炎の塊が流れた。この宮島の西の山を流れた溶岩のような炎の塊は、今も目に焼き付いている。

その時、職員室からスピーカーの声で「江田島で何か大きな事故があったようです。児童はすぐに教室に入りなさい」といわれ、私は校庭にいた10数人と約30メートルもあったであろうか教室目指して走った。そして廊下に一歩を踏み入ったその時、背中を押されるような不気味な爆発音を感じた。

光は1秒間に地球を7周半廻るといわれ、距離にして30万キロメートル届くと聞いていた。音は1秒間に約340メートル進むので、広島市中心部から直線で大竹まで約30キロとすると、約90秒かかることから爆発音を後から耳にしたのは1分30秒たってのことであった。職員室から寸時にスピーカーで児童に危険を知らせた機敏な先生の判断は、緊迫した世相の中だからこそ出来たのであろうか。

それから町内は、子供心にも異様な雰囲気を感じた。広島に新型爆弾が落とされ全滅したという。大竹から義勇隊や学徒動員として広島に入った人たちが大変だという情報が乱れ飛んだ。
私たちは、この時初めて戦争の怖さを感じた。急ぎ大竹町役場(現在の大竹支所)に向かった。するとトラックに立ったままの数人の人が帰ってきた。午後3時を回ったころであったろうか、倒れないように長い杖を持ち白いシャツは無残にちぎれ、身体全体が黒ずんでいた、それは形容しがたい姿であった。

新型爆弾の爆発によるキノコ雲は、不思議なことにいつまでも宮島の南端部上空にとどまり、動くことなく夕日を浴びていた。

その後、市内の各学校が野戦病院となり、私たちの教室も多くの被爆者が床にふせ手当を受けていた。手当もままならず死を迎える人、また夏であるが故、半裸の身体に虫が群れるなど大変な光景を見続けてきた。
伯父は、2番列車であったので広島市内福島町辺りで被爆したが、完全な無傷で帰ってきて大変喜んだ。しかし、9月に入り急転直下、床にふせ数日で亡くなった。近所の無傷帰還者も例外ではなかった。

日本は、近代に入り日清・日露の戦争を繰り広げ、敗戦を知らないまま、昭和16年(1940年)12月8日、真珠湾攻撃から華々しく開戦を宣言し、太平洋戦争に突入していった。
しかし、米国をはじめ予想だにしない連合国軍の軍事力の前に戦局は短期間で悪化していく中で、「大本営」の発表に踊らされながら多くの若者たちが志願し、戦場に向かっていった。
大竹市域には、その短期訓練場として、「大竹海兵団」であり「大竹潜水学校」があったことを忘れてはならない。

昭和16年4月1日より、昭和22年3月31日の6年間をもって、「國民学校」の名は姿を消した。
しかし、「小方國民学校」の門柱は、戦後70年の混乱の中で誰にも気付かれることなく今も立ち続けている。この負の遺産こそ、全国的にも貴重な教育遺産であり、新たな平和教育の貴重な教材として役立ててほしいと強く思う。

太平洋戦争こそ人類史上最悪な勝者と敗者を出した戦争であったと思う。人間が作り上げた兵器は人類を滅亡に追いやるものであり、今も人の命をためらいなく殺戮(さつりく)する兵器が製造され続けられていることは悲しいことである。

大竹市歴史研究会 畠中 畃朧