海外引揚事業

終戦時、外地(カイロ宣言に基づく本州・北海道・九州・四国・その他諸島以外の地域)にいる軍人・軍属、一般在留邦人は約660万人いました。
こうした人々をどうやって内地に送還するかということは敗戦国日本の大きな課題であり、歴史的な難事業でした。

政府はこの事業を遂行するため、昭和20年(1945年)8月30日に「外地及び偽国在留邦人引揚者応急援護措置要綱」を定め、ついで9月12日に帰還輸送方針を明らかにして、占領軍の指令に基づく上陸地の指定を終え、10月には早くも事業を開始しました。

当初、この事業では軍人・軍属と一般邦人の送還を別々に進めており、上陸地も呉鎮守府管内では呉・宇品の二か所が予定されていました。その後、厚生省に引揚援護課が設けられ、業務が一元的に行われるようになり、呉・宇品に替わって大竹港が上陸地に指定されることになりました。そのため、大竹町の引揚施設が急速に整備されることになりました。
昭和20年(1945年)12月、旧大竹海兵団内に呉地方復員局艦船運航部と上陸地連絡所が置かれ、さらに地方復員連絡局広島支局の大部分が移転し、引揚援護局(後に宇品援護局大竹出張所となる)も設置されました。
また、引揚者の収容施設としては、旧海軍潜水学校に呉海軍病院(後に国立大竹病院となる)が、11月に移転し、翌年昭和21年(1946年)2月には呉地方復員局総務部大竹分遣所が設けられました。

こうして、昭和20年(1945年)12月10日、フィリピン諸島・ニューギニア方面から第一船氷川丸が大竹港に入港しました。この船の復員者は、戦争中もっとも悲惨な戦闘が展開された地域の者ばかりであったため、そのほとんどがやつれ衰えて実に痛ましい限りでした。
大竹港ではこのような復員者を乗せた船が次々に入港し、昭和22年1月末までの約1年間で219隻が入港し、410,783人が帰還しました。
これは全国の引揚者の約6.8%にあたり、種類別にみると陸軍が201,720人(49.1%)、海軍が57,035人(13.9%)、一般邦人が152,028人(37%)でした。また、地域別には、台湾、インドネシア、沖縄、フィリピン、ビルマ、マライ、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、ビスマーク諸島、ニューギニア、ソロモン、小笠原、中部太平洋、朝鮮、満州など各方面にわたりますが、特に南方方面からの引揚げが多かったです。
また、これらの内地送還と並行して、沖縄県人1,127人の送出も行われました。

引揚船が入港すると同時に船内検疫、荷物の取調べが行われ、問題がなければ引揚者は上陸します。上陸後もすぐに陸上検疫(身体検査・予防注射等)が行われ、そこで入院を要すると判断された者は国立大竹病院に、その他の者は指定の収容施設(宿舎)に収容されました。
収容施設での収容期間は2日から一週間程度で、その間に引揚証明書、俸給などの給与や旅費、医療・日用品などの支給が行われ、所定の手続きが終われば大竹駅から国鉄の輸送計画による特別列車で帰郷していきます。
引揚所内は非常に混雑し、検疫その他の業務に従事する職員だけでも約1,000人(陸軍関係者400人、海軍関係者300人、厚生省関係者300人)を数えたといいます。
なお、引揚業務に要した食糧、衣服、毛布などの物資は食糧営団や旧軍需部から補給され、消毒薬、医薬品などは占領軍から支給を受けました。

また、引揚後にすぐに国立大竹病院に入院した者は、概ね19,800人にのぼり、これは大竹地区引揚者の約4.8%にあたります。特に陸軍軍人の入院者数の割合が高く、南方方面の激戦地から帰還した者が多かったためと考えら、食糧不足・疲労による栄養失調のほかにマラリヤやパラチフスなどの患者が特に多かったようです。
病院に収容された患者は、転送が困難な者を除き、数日内に出身地近くにある国立病院に転送されました。しかし、当時の国立大竹病院の収容能力は1,000人とされていましたが、昭和21年(1946年)5月には6,000人の患者を収容していたといわれています。

引揚者の郷里への輸送は国鉄の計画にしたがって行われていましたが、混乱が予想されたため、当初から収容所内に出張所を設け、乗車券の交付や列車・船の乗継案内を行うなど、引揚者のために積極的に便宜を図りました。
また、大竹町でも引揚者を歓迎し、これまでの労をねぎらうため大竹駅で湯茶の接待を行ったり,一部の町民の発起による引揚者用の銭湯、理髪店、食堂、遊技場などを旧海軍施設部宿舎内に設けるなど、様々な努力を重ねました。
町内の外地引揚連絡所には、復員者の面会や未帰還者の安否を尋ねる人が後を絶たず、涙ながらに戦友の遺骨や遺品を遺族に引き渡すという光景も続きました。
引揚者の中には戦災その他で帰郷のあてもなく、やむなく大竹市域に在住した者も多く、その数は300世帯を超えたといわれています。

大竹港における引揚業務は、昭和21年(1946年)末をもってほぼ完了しました。
その後も当分の間は宇品で引揚業務が継続されましたが、昭和22年1月31日をもって引揚援護局大竹出張所は閉鎖され、あわせて呉地方復員局戦艦部と上陸地支局、上陸地連絡所も廃止されました。