津屋の本陣門「開かずの門」

かつて木野村を通っていた山陽道の歴史は古く、太閤豊臣秀吉も朝鮮出兵のとき、この街道を通ったといいます。

江戸時代には、木野川(小瀬川)が安芸国と周防国の国境となり、中津原は要衝の地となりました。
山陽道は、脇街道となってもその重要性は高く、参勤交代の大名の往来も多かったようです。
玖波や関戸の宿場だけでは旅人を賄えない場合もあり、例えば木野川が川止め(雨が降り続き、小瀬川の水嵩が増して足止めされること)となれば交通は渋滞し、中津原にも旅人が休憩できる場所が必要となりました。
これが、「津屋のお茶屋」と呼ばれた私設の休泊所になりました。
津屋のお茶屋は、藩主の領内巡回時の休泊所にもなり、殿様専用の門も整備されました。人々はこれを「津屋の本陣門」と呼びました。津屋には、通用門としての長屋門が別にあり、また山手には裏木戸の門もありましたが、本陣門は家族はもちろん一般の人々は通行禁止で開かずの門ともいわれてきました。昔の面影を色濃く残す門として、一部昔のままの建築物を見ることができます。

文政2年(1862年)の国郡誌によると、当時の津屋市郎左衛門は庄屋格の村役人で、御境見廻役を勤めていました。
津屋の元々の家業は酒造りで、お茶屋は副業というよりも、家の名誉としての営みだったと考えられます。