和田家

江戸時代の地方組織である、郡村行政は世襲制が多く、割庄屋・庄屋・与頭(くみがしら)などによる村役人により行われていました。

しかし、この世襲を江戸時代を通じて約270年間守り通すということは容易ではなかったようです。

それは、世継ぎの問題、能力の問題、悪いことをして職を追われるなど、江戸時代を通して世襲したのはごくわずかだと言われています。

小方でこれを代々守り通したのが「和田家」です。

 

楓園咊田翁之碑

江戸末期の天保7年(1836年)、和田家の和田吉衛門は父の死により、20歳の若さで割庄屋の職を引き継ぎました。

その後、和田吉衛門は、難題が山積みの村政にあたり、この年、凶作や災害に喘ぐ村人の苦渋の声に耳を傾け、先頭に立って藩に実情を訴えました。

そして、文久2年(1862年)に、立戸沖の鳥帽子新開の陸地化に着手しましたが、幕府と長州の戦乱を予測し、一時工事を中断しました。予測は現実となり、慶応2年(1866年)、市域は長州戦役の主戦場となった。そのため、市域では、家屋などの焼失により、甚大な被害を受けた。

市域全体では、民家1,734戸、被災者8,996人に達しました。

この人達を救済するため、慶応三年、被災者救済事業として工事を再開し、翌年、70町歩もの新開を完成させました。

明治に入り、廃藩置県による中央集権政治が始まり、郡村の改革は進められ、明治5年(1872年)にそれまでの割庄屋・庄屋・与頭の制度が廃止され、市域は佐伯郡第四大区となり、区長は県から派遣され、その下に戸長4人が置かれました。和田吉衛門、引き続き21か村持ちの戸長を拝命し、地域社会に大きな功績を残しました。

和田吉衛門は、明治10年(1877年)、60歳ですべての職を辞し、明治17年(1884年)11月、67歳で亡くなりましたが、永年の多大なる功績を讃え、明治19年(1886年)12月に顕影碑が建立された。

「楓園咊田翁」とは、和田吉左衛門の俳号です。

また、この碑の表題の「咊田」という字が、口編になっていますが、どのようにして禾編に変わったのは定かでありません。

所在地  大竹市小方一丁目(旧小方小学校裏門入口)
建立年 明治19年(1886年) 石の種類 花崗岩
高さ 154cm 最大幅 74cm

 

「和田家の門」

翌年慶応3年(1867年)に建てられた和田家の「長屋門」は、現在までそのままの形で残されている貴重な建物文化財です。

長屋門は藩の許可なく建てることはできないもので、上級家臣や村運営に貢献をした家格に許されていました。

 

 

上田宗箇が贈った「手水鉢」

上田重安(宗箇)は、永禄6年(1563年)に尾張の星ヶ崎に生まれました。

数々の合戦に参加して武勲を立て、天正13年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、23歳で越前国に1万石を与えられ、32歳で「豊臣」の姓を賜るなど、大きく出世しました。

しかし、関ヶ原の戦いでは西軍につき、合戦には間に合わず参加していませんでしたが、領地を没収され、義兄である摂津の杉原長房の領地に隠れ、剃髪して「宗箇」と号すようになりました。

その後、かつての武勲を評価され、蜂須賀家正の客将となって阿波に住みましたが、浅野幸長に懇望されて家臣となり、1万石を与えられ、関ヶ原の戦いで西軍に加担したことも許されました。そして、元和元年(1615年)、「大阪の陣」に徳川方として参戦し、敵方の大将の1人を討ち取るなどの武功を挙げました。

元和5年、浅野長晟が、安芸広島藩に移封されると、宗箇も広島に移り、佐伯郡一円1万2000石を与えられ、小方に知行所を置きました。

上田宗箇は、千利休や古田重然(織部)の弟子となって以来、その道に精進して、武家茶を極め、「上田宗箇流」を確立しました。その後、宗箇流は、代々受け継がれ、現代に継承されています。

今日、和田家には宗箇が贈った手水鉢が、今も大切に残されています。一般的に手水鉢は高さはあまりなく、軽くお辞儀をして手を洗うほどのものですが、武士が使用するものは刀を差したまま手を洗うので、宗箇が贈った手水鉢も縦長となっています。

この手水鉢は、上部、左の角が少し欠けており、また、2~3ヶ所黒く焼けたような所があります。これは慶応2年(1866年)6月14日、第二次長州征討で和田家の家屋が焼失した際に、この手水鉢も焼け焦げ、また角が熱に耐え切れず、剥がれ落ちたのではないかと言われています。

この手水鉢と同型のものが、他に四基現存していると言われています。その中の一つが、岩国市横山の吉川墓地山裾の、岩国藩初代藩主・吉川広家公の墓の側に置かれた有名な「木莬(みずく)の手水鉢」です。

この手水鉢は、宗箇が、吉川広家に招かれ、枝垂桜を戴いた返礼として贈ったものですが、それが届いた日には、吉川広家はすでにこの世を去っていたと言われています。

所在地  大竹市小方一丁目(和田家の庭)
石の種類 花崗岩 高さ 113cm
縦幅 37cm 横幅 60cm