大膳橋・錦流の滝・黒川氏神社

江戸時代の初期、福島正則の築城普請奉行の古造大膳(こづくりだいぜん)が、黒川の西国街道に立派な板橋を架けました。

その際、川筋の改修工事も同時に行ったためか、川の名前が「黒石川」から「大膳川」に変わり、橋も「大膳橋」と呼ばれるようになったといいます。

昔の大膳橋は、現在の湯舟橋の近くにありましたが、海沿いに新しく国道ができると、そちらに架かった橋に「大膳橋」の名前を取られてしまいました。
黒川の地名に関係がありそうな「黒石川」の名前が消えたのも、当時の新たな為政者への配慮があったのかもしれません。
大膳川は、谷和の潮見峠を水源として、黒川谷を流れ、海へと注ぎます。この川に沿って、昔から「黒川・谷和道」があり、人馬が行きかった石畳も残っています。

また、大膳川の支流の「上谷川」には「錦龍の滝」があります。
江戸時代からの名勝ですが、「錦龍の滝」という派手な名称に変わったのは戦後間もない頃だといわれており、かつては「村雨の滝」と呼ばれていました。

黒川神社は広島・岩国道路建設のため、湯舟町側に新たに建て替えられ、近代化する町を見下ろし、地区の氏神となっています。
この地区は、今も油見の顕徳寺の檀家が多く、顕徳寺の参道の石段の寄進者は黒川地区の方で、江戸末期の万延元年(1860年)黒川村の門徒たちが石段とともに標石を寄進したものと思われます。
標石はいつの頃からか行方がわからなくなっていましたが、昭和47年(1972年)に発見され、神社に里帰りして手厚く保護されています。

 

今もその名を残す「木造大膳具康(ともやす)」 

慶長5年(1600年)8月23日、関ヶ原の合戦の前哨戦として、福島正則・池田輝政隊など東軍にする諸隊が、織田信長の嫡孫 織田秀信の立てこもる「岐阜城」を取り囲みました。

福島正則は、一番乗りをめざし、城へ総攻撃をかけます。その一隊を指揮する福島伯耆守は、後に亀居城築城の城将を務めた人物です。
一方、西軍の岐阜城主織田秀信を守る武将の一人「木造大膳具康(ともやす)」もまた、後の亀居城築城に名を残す人物となります。

主君秀信を死守する木造大膳の働きに、正則は「木造が働き見事なり。侍大将はかようにあるべし」と馬上で褒め称えたといいます。家臣の一人の大橋茂右衛門は「敵を褒めなさるものよ」と苦笑したといわれます。

西軍の攻撃により岐阜城は陥落します。木造大膳は、主君秀信の命を救うため和議を成立させ、秀信は剃髪し高野山へ向かわせますが、自身は深手を負って民家に身を寄せていました。
正則は「医師をつかわし完治するまで手当をしてやれ」と伝え、大膳には何も語らず、そのまま「関ヶ原の戦い」に兵を進めました。

そして、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いで、東軍は勝利します。
勲功を挙げた正則は、芸備二州を拝領し、700人の家臣団を引き連れ、堂々と広島城に入城しました。
広島城に落ち着いた正則は、木造大膳に広島に来て家臣になるように二度の書状を送りました。
しかし、木造大膳は二君に使えぬと二度の書状を送り返してきました。
正則は「ならば連れに行け」と三人の家臣を送り、強引に木造大膳を広島に連れて帰り、2万石の客員家老に仕立てたといわれます。

慶長8年(1603年)、正則は毛利氏への守りの城として、亀居城の築城を開始します。
木造大膳は築城に加わり、賄(まかない)を指揮したと推測できます。その折、黒川村に強固な橋を架けたことから村人たちが喜び、この橋を「大膳橋」と呼び、同時にこの川を「大膳川」と呼ぶようになったと伝えられています。

1年後の慶長9年(1604年)、城の完成を待たず木造大膳は病に倒れます。
正則は毎日行水し心身を清め、「どうか大膳を今五年お助けくだされ」と、大声で泣き叫び神様に懇願しましたが、木造大膳は城内で没したといわれます。