小島(丸小山)

江戸時代、立戸の東方700mの沖合に「小島」と呼ばれる小さなおむすびの形をした島がありました。
この島を、小方・油見・大竹の各村々は「自分の村の島だ」と言い張り、磯の権益を主張していました。

ところが、広島藩は、この小島を起点として大規模な干拓を始めます。
天保3年(1832年)に、144町歩(143ha)の土地が完成し、「小島新開」と名付けられ、藩の蔵入地(直轄地)となりました。
入植者は藩の各地から集められ、安政元年(1854年)には、「小島新開村」として一つの村となりました。
一方、地元の人たちは磯を取り上げられた上に、新開地への入植はできず、その不満が爆発した総働もありましたが、明治22年(1889年)に小島新開村は大竹村と合併します。

陸地化された小島は、山裾を削られたり、山上の松が切られるなど、荒らされました。
昭和3年(1928年)、当時の小田大竹町長は、この山を永久に保存したいと考え、有志とともに頂上にお稲荷さんを祭ることにしました。
そのためか、周囲50m、高さ8mばかりの小島が、今日まで奇跡的に残っており、丸小山と呼ばれて親しまれています。