小瀬川の花火大会

昭和に入り、大竹地区の繁華街は、元町から本町通に移り権現橋辺りまでが賑わいを見せていました。花火大会の起こりとなったのは、昭和7年頃からといわれています。
江戸期の頃から現在の大和橋の下流域の傍の「三角」というところに鎮座していた海の神“住吉神”を信仰している「住吉神社」と、航海の守り神“金毘羅神”を信仰する「金毘羅神社」の廻船を営む二家の夏祭りの機会に、この地区の各商店街から寄付を仰ぎ小瀬川の花火大会は始まったといわれています。
しかし、国情は多難な時期を向かい、日支事変(1937年)や太平洋戦争(1941年~1945年)の中は花火大会は中止を余儀なくされました。
戦争終結後、窮乏の時代を脱し、落ち着きを取り戻し始めた昭和25年頃、当時、大竹町・和木村が10万円ずつ拠出し、さらに両地区の各企業から協力を得て社名を前面に押し出した「仕掛け花火が登場し、花火大会には多くの人たちが集まるようになり、本通り筋には夜店が軒を並べ小瀬川の風物詩となり、規模も年々拡大されるようになりました。

小瀬川の花火大会では、大和橋から下流約300mのところに浮かべた川舟(台船)から花火を打ちあがる花火を川の両岸から見物するのですが、川幅もそれほど広くないため、ほぼ真下から花火が見られます。
花火の火の粉が川沿いの家に落ちてきて、昭和26年には老夫婦の暮らす川の傍の藁葺屋根から出火し、消防車が出動する騒ぎもありました。それ以来、藁葺屋根の家が点在する青木地区の川辺の家々では梯子を掛けバケツを持って花火見物という風景も見られました。
このような粋な伝統文化は、厳しい社会情勢の中でも今も息づいています。
そして、今年も近郊から多くの人々が集まり、真夏の天空に輝く花火を見上げながら、涼しさを満喫できる風物詩として、長く歴史を重ね市民の皆さんの楽しみとして定着してゆくことでしょう。