所吾朗の墓

この墓は、光明寺境内墓地の山裾にあります。

幕末の黒船来襲を機に、諸藩で農兵が取り立てられ訓練されましたが、広島藩では、文久2年(1862年)に村々の屈強な者が選ばれ、武芸訓練が行われました。

市域では、武術や鉄砲を得意とするものが850人いましたが、その中から294人が農兵として取り立てられました。
その多くが農家の次男・三男で、これが徴兵制度のはしりとなりました。

慶応2年(1866年)の長州戦争で幕府軍が敗北した後、広島藩は薩摩藩・長州藩とともに討幕軍に加わり、農兵による「応変隊」などが結成されました。
その応変隊の中に、大竹村の林次郎として、所吾郎の別名が見られます。

所吾朗は、戊辰戦争、後の西南の役にも参戦し、帰還後は、大野村林が原に居を構え、漁業組合や学校関係の役員として地域社会に貢献しました。

死後は、墓碑は海の見える大野村尾那岡に建てられましたが、この山が工業用地として削られることになり、故郷の大竹村に里帰りし、光明寺境内に遷されました。