浅生塚と芦路塚

薬師寺境内の裏手に、二人の俳人の塚が並んで建立されています。

右側が、「浅生塚」で、蕉門十哲の一人「志田野坡」の塚で、輝照凝灰岩(青石)に大きく刻まれています。

元禄6年(1693年)の頃、松尾芭蕉の門下となり、足しげく師の許に通い、熱心に指導を受け、芭蕉からも高く評価されたと言われています。

三井両替店に勤めていた志田野坡は、商用でたびたび中国路を経て九州へと向かっています。九州では、博多・久留米・長崎など、旅寝を重ね、多くの人たちを門下に引き入れました。

その結果、中国、九州筋を合わせて盟約の門人1千余人、講義を聞くもの3千余人に及び、他の門を寄せ付けず、芭蕉一門の拡大に貢献しました。

師の没後10年、宝永元年(1704年)に三井両替店の番頭格にあがりましたが、43歳の若さで職を辞し、難波の地に居を構えました。

大竹村にも十数度滞在し、その都度、俳句の会を開き同行の人々が集まり、「竹里連中」という会が生まれました。

これが発端となり、古くから文芸の盛んな町大竹といわれ、現在も俳句・短歌・川柳などを学ぶ人が多く、その伝統は守られ、学習環境は維持されています。

志田野坡の顕彰碑は、大坂難波(5箇所)から九州にかけ、今日なお12箇所残っていますが、中国路では大竹だけが残っており、貴重な石造文化財として、平成4年10月、大竹市の史跡文化財に指定されました。

志田野坡を慕う大竹村の門人、孔雀坊芦路と梨花亭巨礫がこの塚を建てました。

孔雀坊芦路は、現廿日市市宮島町の生まれといわれ、結婚後大竹村に永住し、昨飽庵と称して志田野坡の諸国行脚の間、大竹に留まり指導しました。

安永2年(1772年)、72歳で没し、浅生塚の傍に門人たちの手により「芦路塚」が建てられました。