胡子神社

胡子神社1胡子神社の名称には、胡・恵比寿・えびす・夷・戎・恵比須・恵美須・蛭子・エビスなど数多くあります。

えびすさまは、七福神の一人で、蛭子命(ひるこのみこと)を祭神とし、海上の神、漁業の神、そして商売繁盛の神として信仰されています。風折烏帽子をかぶり、鯛を釣り上げる姿で表現されることが多いです。

旧大竹町三区中市と二区小田の境にあった胡子神社は、創建年代は定かではありませんが、文政2年(1819年)に広島藩へ提出した「国郡誌」大竹村の記載に「御中休 恵美須社 勧請断」や「御旅所 恵美須社 勧請断」とあり、すでに200年前には存在していたことになります。

胡子神社は、大瀧神社の秋の祭礼に立ち寄られる道筋にあり、本町に遷座されるまでは、境内で巫女舞が奉納されていました。

胡子神社2もっと大きな規模となったのは、明治に入ってからと考えられます。中国地方三大神輿といわれた現在の神輿は、明治9年9月に大阪から購入したもので、小島新開村の棒鼻の波止(現在の小瀬川河口域にある住吉神社の上手のあたりを堤防が内側に包むようになっていたといわれています)に揚げ、15人ほどで担ぎ神殿に納めたと言われています。この神輿は400kg以上の重さで、40~50人が担いでも長い時間担ぎ続けることは難しく、15人で担いだというのは考えがたい力です。

その頃の大竹村は、現在の大和橋付近より沖の青木新開が周防の国との境界と定められた時期で、まだ人が住むことができる環境ではありませんでした。本通りが鼻操川の堤防であった頃で、満潮時には、船を着け鳥居(元田淵別荘付近)をくぐり長い参道を歩いて、大瀧神社に参拝していました。

文政2年(1819年)、大竹村の特に元町・山根界隈には、人口3,136人(男子1,597人・女子1539人)が暮らしており、胡子社を早くから建立していたと考えられます。

江戸時代、元町界隈は、春日通りが主要道路としてにぎわい、明治半ば過ぎには、堤防を道路として整備が進み、現在の元町の本通りに店屋も増えていきました。

このようにして、元町は、中市・中町という呼び名で栄え、町の繁栄のため「胡子神社」が信仰の中心となったと考えられ、昭和10年代までは、元町界隈も、店屋が多く点在し、秋の胡子講で賑わいました。

そして、太平洋戦争終結後に市域が変革を遂げることになります。昭和30年代後半には、大竹市は大企業の誘致に乗り出し、町は活況を呼び、賑わいも現在の本町方面に移り始め、昭和40~50年代には中心部は大竹駅前、栄町方面へと移っていきました。

そうした社会の移り変わりにともない胡子神社も昭和41年(1966年)秋、本町一丁目の現在の大竹会館前に遷移されました。

現在の胡子神社は、境内三方の玉垣は、元町時代のもので、正面の玉垣は遷座後のものです。

手水鉢は大正5年(1916年)、狛犬は昭和33年(1958年)で元町時代のものです。注連柱は遷座後の昭和42年11月の年号ですが、三郎左衛門の銘があり元町時代にあったものと思われます。