お神輿を担いだ六人衆

明治9年(1876年)、当時、大きさと造りの素晴らしさは西日本三大神輿の一つと言われた、大きな神輿が、京都から船に乗って、小島新開の棒鼻の波止に着きました。

村人たちは、神輿を拝もうと総出で波止に集まり、「まことに神々しいのう」と、金色に輝く神輿にしばらく酔いしれたと伝えられています。

驚いたのはその後で、この神輿を選りすぐりの村の力持ちが5、6人で担ぎ、そのまま神社まで持ち帰り、急な石段を上って拝殿に据えたといいます。

当時、輿蔵といって、上り組に神輿を納める蔵があり、祭りの前日(よどの夜)に上りの人たちが、神輿を大瀧神社に担いでいっていました。この神輿を上り組の力持ちが4人で担いだところ、前に一歩も進むことができなかったといわれ、小島新開から神社まで担いだ人たちは想像を絶する力持ちであったと思われます。

また、その当時の山車はどうであったかというと、まだ数人で棒を通して担いでいたと思われます。かつて上り組に「岩見屋」という屋号を持つ商家があり、そこで働く人たちが「雛飾り」を担いでお祝いしていましたが、お祭りのときにこの山車を神社に奉納しようということになり、明治も10年代頃から始まったと言われています。

それが現在のように太鼓台として登場するようになるのは、かなり後の時代で年代は特定できません。

また、奴行列も当時は大竹独自のものではなく、関戸村の奴師を雇って大竹祭りに花を添えていました。これは大正時代まで続いたと言われます。

その後、大竹独自の奴行列に発展していきますが、詳しく記録されたものがなく、年代を特定することは難しいです。