佐伯鞍職(さいきくらもと)

飛鳥時代、推古天皇即位の年(593年)に、大和の国の印南の野に七色の声を出して鳴く鹿が現れ、それが評判となって、推古天皇の耳に入り、「その鹿の姿をぜひ見たい。誰かその鹿を捕えてこい」と仰せになりました。

朝廷に仕える公卿たちには、鹿を捕えるような勇気のある者はおらず、お互いに顔を見合わせるだけでありました。

その中で、佐伯鞍職は、「佐伯部」という宮廷警護の役人で、腕も立ち勇気もある男で、進んでこの役を買って出ました。

しかし、鹿はとても素早く、いかに鞍職に力があり勇気があっても、到底捕えることはできませんでした。

かといって、帝がぜひ見たいと言われるのであるから、弓矢で射ち殺してでも捕まえた方がよいのではと自問自答しました。

そして、また印南の野に分け入り、鹿を発見したので生け捕りしようとしましたが、やはり捕えることができず、鞍職は悔しさを隠しながらついに弓矢を放ち、鹿を射ち殺しました。

 

人夫たちに鹿を担がせ、宮廷に帰って披露しましたが、予想だにしないことが起きました。公卿たちは自分たちの勇気のなさを棚に上げ、鞍職への妬みもあって口を揃えて帝に申し上げました。

「この鹿の毛色は金色である。昔より金色の鹿は神の使いとして尊とばれたものである」、「特にこの鹿の毛は、金色といっても九色が入り交じって金色に見える珍しい鹿であり、この尊い神の使いの鹿を殺した者は許せない。重罪に処すべきだ」

推古天皇は鞍職の気持ちを察しながらも、公卿たちの意見に押され、重罪人として流刑を言い渡しました。そして鞍職は、小船に乗せられ、瀬戸の海へ漕ぎ出しました。

 

何日かたったある日、西に向かった小船は、安芸の沙々羅濱(現在の大竹市元町四丁目付近)に流れ着きました。

鞍職は、これまで宮廷の警護役として不自由なく暮らしていましたが、その日の暮らしにも困るようになり、毎日浜辺に出ては釣りをしたり、網を作って魚を獲ったりして、その日その日を送っていました。

そして、ある日の夜明け方、はるか因賀島(現在の厳島の旧名)の西方から紅の帆を張った船がやって来て、大竹の入り江に入ってきました。

鞍職は、白い帆の船は見たことはありましたが、紅の帆は初めて見ました。あまりにも珍しい光景に魅せられていましたが、近づいた船をよく見るとそれは船ではなく、ルリガラスの壺でありました。

しかもその壺の中に十二単の衣を召した三人の姫が現れ、「我々の名は、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タキリビメ、タキツヒメである」と美しい声で名乗られた。

そして、「我々は、元々西国(九州)にいたが、思うところがあってはるばるやって来た。この地に住もうと思うので、そなたはこれより案内して賜れ」とおっしゃいました。

鞍職は、かしこまり、因賀島の七浦を回って案内したところ、三笠の浦に来たとき、「あらいつくしい」と言われました。それからこの島を「いつくしま」と呼ぶようになりました。

三女神は、鞍職に「この浦に神殿十七間、回廊十八間を造営し、我々を厳島大神として祀れ」と託宣(神のお告げ)されました。

しかし、鞍職は、流罪となった重罪人です。そのような大役が勤まるはずがないと正直に言い、それに加えて、「朝廷に奏上するには、何か裏付けになるような霊験あらたかなものがない限り、信用されないでしょう」と申し上げました。

すると、三女神は「汝が朝廷に奏上する時刻に、宮廷の北東の空に客星の奇妙な光が出現して、宮廷の公卿たちを驚かすであろう。そして、そのとき、多くのカラスが集まって、宮廷の榊の枝を加えるであろう。そのことを証拠とするように約束して奏上せよ」とおっしゃいました。

鞍職はその言葉を信じ、都に上り、三女神の託宣のいきさつを帝に奏上しました。

ちょうどそのとき、難波の宮廷の北東の空に不思議な客星の光が輝き、千羽のカラスが現われて榊の枝をくわえ、樹上で鳴き騒ぎました。

帝は、鞍職の奏上したことは間違いないと感激し、鞍職は即座に罪を許されました。

こうして鞍職は、大竹・弥が迫から小船で厳島に通い、託宣のとおり神殿建築を進め、ついに見事な厳島神社を完成させました。

それから、鞍職は厳島神社の神主となり、佐伯鞍職の姓にちなんでこの辺り一帯を佐伯郡と定め、治めました。

鞍職がイチキシマヒメに初めて会ったとき、「そちはいかなる者ぞ」と尋ねられ、「わたしは、ところの者です」と言ったので、その後、鞍職は「所の翁」と呼ばれるようになったと言われています。

そして、大竹市元町辺りでは、昔から地元の人のことを「ところの者」というそうです。

現在、元町四丁目の疫神社には、佐伯鞍職の形代を納めたとされる「所塚」が残っています。

また、推古天皇が、この地を訪れた際に、杖としていた桜の枝を立てたところ、根が出て大樹になったといわれる「推古桜」があります。