飛ばなかった飛行機

大正12年(1923年)、黒川のある家に宿泊していた人が、明治新開の広場で飛行機を飛ばすことを計画しました。このことを聞いた当時の小方小学校の校長は、これは珍しいことだと佐伯郡下の各小学校にその案内状を出しました。

話は話をうみ、噂は郡下に広がり、当日は郡内各地から多くの人が見学に押し寄せました。明治新開には出店が揃い、子どもの入場料は取らない代わりに日の丸の旗を一銭で売り付けていました。
近郷町村から集まった観衆は文字通り黒山の人だかりで、黒川ではかつて集まったことがない群衆だったそうです。快晴の広場で準備作業が進められ、復葉の飛行機が組み立てられていきました。人々は初めて見る飛行機に見とれ、どよめきの中で組み立て作業が終わりました。

やがて飛行服に身をかためた飛行士があらわれ、おもむろに飛行機に乗り込み、エンジンを始動させました。観衆はかたずをのみ、期待に目を輝かせてこれを見守っていました。

当時の飛行機は、プロペラを手で回してエンジンをかけなければなりませんでした。
ブルンブルン・・・・プシュー、ブルンブルンと繰り返すが、なかなかエンジンはかかりません。観衆から不満の声があがり、それはしだいに非難に変わっていきました。
そうこうするうちに大音響をあげてエンジンがかかり、プロペラの回転で大砂塵を巻き揚げ、不満・非難の声は一気に大歓声に変わりました。飛行機は大きく機体を揺すり、轟音は耳をつんざき、目は開けておれないほどの砂塵の中で、今にも大空に舞い上がっていきそうな雰囲気でした。が、一向に動きません。

そもそも滑走路のない場所で、飛行機が飛び立てるはずはありませんが、飛行機を見たことのない当時の人々には、そんなことはわかりません。結局、集まった大観衆は砂塵を浴び、轟音を聞かされただけで、大空を飛び回る飛行機の勇姿を見ることはできませんでした。期待外れに終わり、落胆、不満、非難の声があがる中で、人々は家に帰っていきました。

案内状を出した校長も大きな非難を浴びたといいます。また、飛行機を飛ばすことを計画した者は、三田尻に姿を消したということです。