黒川村と玖波村の山論

中世は黒川・玖波ともに宮島の神領地となっていましたが、毛利氏が支配するようになってからは、玖波は宮島大願寺領、黒川は毛利家臣の熊谷一族の給地になったため、山合いの境界を巡って双方が主張するようになりました。

黒川の給主の熊谷兵庫頭が大願寺に宛てた書面によると、玖波・黒川の境界争いについて、毛利の奉行兼重が調停をはかったようです。
兼重は玖波・黒川の両村の農民から事情を聞き、境界を確定しようとしましたが、調停は思うように運びませんでした。
その間も、玖波の百姓からは「黒川衆が炭焼きのために久波山を切り払うので迷惑している」との訴願が出されるなど、現地での争いは続いていました。
そして、調停がつかないうちに黒川の給主が替わったため、一時現地での争いは静まりましたが、境界は確定するには至りませんでした。

ようやく境界が確定したのは、それから約 年後の明治15年(1882年)に「玖波・黒川両村の山林境界定約書」が交わされてからです。
これによると「湯舟山は中央をもって村境とする。湯舟山から谷和境までは山尾根を村境と定める。(中略)双方、連署定約書及山図共併せ為酌交置候処如件」とあります。