大竹市歴史研究会も編集に協力しました「西国街道大竹路」のリーフレットが大竹市教育委員会か発行されました。
このリーフレットを手に、江戸期を彷彿する西国街道大竹路を歩き、大竹市内の史跡を散策してください。
リーフレットは大竹市内の各公共施設に置いています。詳しくは大竹市教育委員会生涯学習課までお問い合わせください。
亀居城本丸下の説明板について、昨年のペンキ塗替えに引き続き、今年は、大竹市教育委員会のご支援により、大竹路の全行程イラスト付き説明板を新調し、3月16日に設置しました。
読みやすく、わかりやすいものができたと思います。
公園を散策する際は、立ち止まって読んでいただけると幸いです。
令和2年1月31日(土)、大竹市教育委員会の史跡整備事業のお手伝いとして、大竹市歴史研究会は亀居公園の本丸南側の「西国街道大竹路」の説明版のペンキ塗り替え作業を行いました。
この説明版は、江戸時代の西国街道大竹の全工程(玖波の「鳴川の石畳」から「木野川の渡し」までの全長8.1km)を解説した大型の説明版で、ペンキの塗り替えによって、とてもきれいになり、明るく見やすくなったと思います。
亀居公園に来たときは、ぜひ立ち止まって読んでみてください。
大竹市・大竹市教育委員会の歴史・文化事業の一環として「西国街道大竹路」の整備事業を実施しました。
山陽道(行政区)の幹線道として長く役割を果たした「西国街道大竹路」は、今もその姿を残し、大竹市歴史研究会はこれを維持・活用していきたいと考えています。
11月上旬から草刈りや道標設置場所の調査を開始し、12月1日に全スケジュールを完了しました。市域内外の皆さんの活用を期待します
わがまちの方言を発刊して以来、新聞、ラジオなど各方面でとり上げていただき、おかげさまで当初作成した700部はほぼ完売となりました。
今後、お問い合わせいただいたときに「もうありません」と言うのは心苦しく、できるだけ多くの人に手にとっていただきたいと思い、思い切って追加で300部作成しました。
興味のある方はぜひ購入してください。
私たち大竹市歴史研究会は、昭和56年の発足から38年の歩みの中で、この度8冊目の郷土史「わがまちの方言」を発刊することになりました。
また、編集作業に当たり、大竹市教育委員会のご指導と、そして「公益財団法人ひろしま文化振興財団」のご支援をいただき、発行の運びとなりました。心から感謝いたします。
わがまちの方言
○発行責任者 大竹市歴史研究会
○価格700円(送料スマートレター180円)
○申込方法(電話で申込んでください)
畠中 0827-52-7484
河野 0827-57-3777
元和5年(1619年)福島正則改易後、浅野長晟が広島城に入城して今年で400年になります。
大竹市歴史研究会では、大竹市教育委員会との共同事業として、歴史地理学研究家 「佐々木卓也」先生を招聘し、歴史講演会を開催します。
幕末維新の騒乱期については、市域では長州側の視点で学習・歴史認識が多いのではないでしょうか?今回は、幕府方、特に浅野家が日本の近代化に果たした役割などについて、講演していただきます。お気軽にご来場ください。
開催日 7月6日(土) 12時50分開場
講演時間 13時30~3時30分
講師 佐々木 卓也 先 生
テーマ 広島藩政と佐伯郡域
入場無料
写真を整理していたら懐かしい写真が出てきました。
この写真にある橋は、「会社橋」と呼ばれ、大竹市が工業都市となっていく歴史が秘められています。
大竹市域では中世後期から、小瀬川水系を
明治39年5月「芸防抄紙(株)」が和木村瀬田に建設されました。その後、芸防抄紙(株)は合併を重ね、大正15年に「日本紙業(株)芸防工場」
川の長さは約100mに達していましたが、橋の幅員は1m余りであったと記憶しています。幾つもの木製の橋脚の上に約1mの横板を並べているものが、
日本紙業芸防工場が大竹工場に平成5~6年に大竹工場に移転されましたが、
大竹市歴史研究会では、3月6日(水)に平成30年度3回目の市域外活動として「尾道研修」を行いました。
朝から雨雲が東に向かう中、尾道の浄土寺に午前10時頃参拝、多くの国宝建造物、貴重な仏像など拝観させていただきました。
続いて山麓を西に108段の石段を登り詰めたところに、2mの大草鞋を掲げた山門に圧倒されながら、今回の研修テーマでもある大竹村との大相撲で深い繋がりのある高さ3mを超す「注連柱」が迎えてくれました。
この注連柱は、江戸後期の相撲取りである陣幕久五郎が建立したものです。
後の陣幕久五郎は、大坂場所を目指して嘉永元年(1848年)、出雲の国八束村(松江市)から尾道に出て「初潮久五郎」の弟子となり、土地相撲に入りました。
その後、師匠の娘と結婚して大阪を目指し、師匠初汐久五郎の知人であった大竹村出身の大坂相撲会所の小結「大蔦力蔵」に可愛がられ、江戸本場所行きを進められ、第九代横綱「秀の山雷五郎」の部屋を紹介され、江戸での活躍が始まります。
そして慶応元年(1865年)、37歳で相撲の頂点である第12代横綱に輝きました。
尾道の真言宗西国寺に本堂に向かって、亡き二人の師匠である「初潮久五郎」を右に、「大蔦力蔵」を左に大きく豪快な四股名を彫り,自らの名を伏せて建立している陣幕久五郎の心意気を感じました。
その後、古寺巡りをしながら激しく降りしきる雨の中「千光寺」より尾道水道を見ながら下山し、尾道の途轍もない古き歴史と多くの文化財を拝観して帰路につきました。
現在、大蔦力蔵の墓と常夜燈は大竹市内の寺社にそれぞれ歴史を伝えています。