「歴史トピックス」カテゴリーアーカイブ

歴史的に繋がりのある「尾道研修」

大竹市歴史研究会では、3月6日(水)に平成30年度3回目の市域外活動として「尾道研修」を行いました。

朝から雨雲が東に向かう中、尾道の浄土寺に午前10時頃参拝、多くの国宝建造物、貴重な仏像など拝観させていただきました。
続いて山麓を西に108段の石段を登り詰めたところに、2mの大草鞋を掲げた山門に圧倒されながら、今回の研修テーマでもある大竹村との大相撲で深い繋がりのある高さ3mを超す「注連柱」が迎えてくれました。

この注連柱は、江戸後期の相撲取りである陣幕久五郎が建立したものです。
後の陣幕久五郎は、大坂場所を目指して嘉永元年(1848年)、出雲の国八束村松江市)から尾道に出て「初潮久五郎」の弟子となり、土地相撲に入りました。

左=初潮久五郎 右=大蔦力蔵

その後、師匠の娘と結婚して大阪を目指し、師匠初汐久五郎の知人であった大竹村出身の大坂相撲会所の小結「大蔦力蔵」に可愛がられ、江戸本場所行きを進められ、第九代横綱「秀の山雷五郎」の部屋を紹介され、江戸での活躍が始まります。
そして慶応元年(1865年)、37歳で相撲の頂点である第12代横綱に輝きました。
尾道の真言宗西国寺に本堂に向かって、亡き二人の師匠である「初潮久五郎」を右に、「大蔦力蔵」を左に大きく豪快な四股名を彫り,自らの名を伏せて建立している陣幕久五郎の心意気を感じました。

その後、古寺巡りをしながら激しく降りしきる雨の中「千光寺」より尾道水道を見ながら下山し、尾道の途轍もない古き歴史と多くの文化財を拝観して帰路につきました。

現在、大蔦力蔵の墓と常夜燈は大竹市内の寺社にそれぞれ歴史を伝えています。

油見の貝塚と明貝

油見~立戸の山裾には、昔からの生活道が直線状に通っています。
この道を中心にして、貝塚があちこちに姿を見せています。

油見の貝塚については、銅銭の寛永通宝や中国の北宗銭・景徳元宝(1004年)などが掘り出されており、廿日市市あたりの貝塚と同様に中世から近世のものと思われます。
江戸時代に編集された国郡志・郷邑記の油見村の項に
「女は磯へ出、貝を掘る」「小貝を明貝にして乾かして他郷に送る」とあります。「明貝」とは貝のむき身のことで、昔から貝は田畑の少ないこの地域の重要な生活の糧となっていまいた。
こうした貝殻が捨てられ、長い間に積もり積もって貝塚となりました。

岩国の昔話に、大竹の明貝売りが狐に化かされた話があります。藩政時代、厳しい掟の中で食べ物も制限されていましたが、塩鰯と明貝の小商人は村々へ入ることが許されており、国境を越えた商いが行われていました。

小瀬川の3つの「さかえ橋」

小瀬川はかつて別名を木野川ともいい、全国的にも珍しい二つの名前を持った川でした。
古来、この川が安芸と周防の国境だったことで紛争が絶えず、明治以降も広島・山口の両県民は競い合って、それぞれが我が方の呼び方を頑固に守ってきました。
ようやく昭和43年(1968年)に河川の管理が建設省に移った段階で「小瀬川」に統一されました。

この川に架かる橋の名前もまた、川の名や地名を採用すると折り合いがつかず、苦労して付けたあとが見られます。
大正10年(1921年)架橋の木野と小瀬を結ぶ「両国橋」は、旧山陽道であることから妥当な名前が付けられたと思われます。
続いて、大正12年(1923年)に、坂上までの二間道路が開通し、その際架橋された後飯谷と弥栄をつなぐ橋は、「堺橋(さかえ橋)」と名付けられました。
また、栗谷と釜ケ原を結ぶ橋は、昭和4年(1929年)に渡し船を止めたことにより架橋されたものですが、堺をもじり、「栄橋(さかえ橋)」と名付けられました。
ところが、昭和17年(1942年)に完成した観光道路(現在の国道2号)の大橋の名称にはほとほと困ったようで、またも「栄橋(さかえ橋)」と名付けてしまい、ここで小瀬川に三つのさかえ橋ができてしまいました。

 このうち堺橋は、朱塗りの美しい鉄橋でしたが、弥栄ダムにより水没することになり、代わりに弥栄大橋が架けられました。
なお、栄町の名は、栄橋にちなんで区画整理のときに付けられたものです。

油見古道を歩く

油見古道
心癒される油見古道

油見の顕徳寺というお寺から登り、右手に歩きはじめると静かなたたずまいの「油見古道」という心癒される古道に差し掛かります。

油見古道は、江戸時代初頭の大竹の海岸線が山裾まであった頃、小方の港や西国街道に出る主要な道でした。
かつては現在の元町方面から繋がっていましたが、近年はその姿がなくなりました。
しかし、近郊でも見られない貴重な古道であり、今もなお生活道として活用されています。

油見古道の白檀
石垣に自生する「白檀」

油見から立戸にかけて昔日をしのばせる見事な石垣は、この山裾の地層の石で築かれている「粘板岩玖珂層群」の石で、いつの時代に築かれたものかはわかりませんが、寸分の狂いもなく時を積み重ねています。
昔はどこの家の石垣にも自生していた「白檀」という多肉植物で、花をつけない時期は決してきれいではありませんが、石垣にしっかり根を張る我慢強い植物です。
現在では生活環境も変わり、コンクリート化されて住むところを追われ、市域でもここだけに見られるようになりました。5月初旬にわずか直径3cmほどの赤い可愛い花を一斉に元気よく咲かせます。

その古道をしばらく歩き、左の山道を登ると「薬師堂」があります。

油見薬師寺(役小角)2
下駄を履いた仏様としては破天荒な役小角の像

油見の薬師寺は、すでに195年前の国郡誌油見村に記載されています。
古くから油見村の人々によって、薬師如来をご本尊として大切にお堂は守られています。また、市域では小方の行者山とここだけに見られる貴重な「役小角(えんのおずめ)」の仏像があります。

「役小角(えんのおずめ)」は、実在の修験僧で、欽明6年(537年)に生まれ、修験道の開祖といわれています。出で立ちも袈裟をかけ頭巾をはおり、高下駄いて履き杖をつく像が多く、油見の薬師堂の仏像もまさにその通りのお姿です。

手すき和紙の歴史を作った「井筒」路地

小瀬川の川原から山の麓まで続く生活道(かつての楮運搬道)

小瀬川流域の和紙の歴史は、中世後期山代の国(現岩国市本郷町波野)に始まり、原料の楮も順調に確保され余剰が出るほどとなり、国境(くにざかい)を越えた栗谷地区に製法が伝わったといわれています。

広島型花崗岩の地層を流れる小瀬川は、良質な和紙が漉かれ江戸時代に入り、川手・木野・そして大竹へと広まりました。 

大竹地区では、「紙漉き」が多くの家で漉かれるようになり、各生産者が「楮」を大きな釜で蒸し小瀬川の河原に担いで行くため、山手の人たちが直線的に効率よく行けるように、各家主が土地の一部を提供し合い、山手から遠回りしないで小瀬川にたどりつくようにした路地が「井筒」のように作られ、今も生活に欠かせない路地としてそのまま使われています。

ここにも大竹人気質の心優しさが色濃く見えます。

元町4丁目から本町辺りまでの町並みを気を付けて見ると、3軒から4軒で川に降りるようになっている。他の町にはない路地の多さに気づく。

それは、大竹が特産和紙の生産地としての基盤をなした道であることを今に伝えています。

この水どこから?

小瀬川水系は、全長59kmの決して水量豊かな大河ではありません。

しかし、二つの多目的ダム、その一つは西日本3位といわれる弥栄ダムがあり、そして中国電力の二つのダムを有し、一滴の水も無駄なく私たちの生活に大変役に立っている川です。

廿日市市浅原の保曾原地区より小瀬川の水を送水管で渡ノ瀬ダム上流の友田橋のところから渡ノ瀬ダムに送り年間発電量を確保しています。

そして渡ノ瀬ダムより中国電力玖波水力発電所でタービンを回し電気を作り、使用後の水は半分は玖波地区の恵川には流し、残りの半分は借りた水は小瀬川に返すということで、大竹市上水道水源地上手約70mのところに返されています。

このことにより、下流にある行政水源地施設や民間水源地施設数カ所に役立っているのです。

発電水
写真上部は、国道186号線(防鹿~穂仁原中間あたり) 玖波水力発電所より使用済みの水が、ここに返されている。

小瀬川に架かる沈下橋

小瀬川中流域の大竹市上水道水源地、通称「防鹿水源地」のところから、岩国市小瀬字前渕地区まで「沈下橋」が架かっています。

この橋は、向かいの前渕地区の人たちが、苦の坂から小方へと渡る生活に必要な橋でした。

かつては川舟や地区の人たちが総動員して「木橋」を架けていましたが、洪水のたびに流され難渋していました。

そのため、前渕地区の山本信吉氏が先頭に立ち、両県に陳情を重ね続け十年後に叶い、全長55m・幅2m・橋脚16本が打ち込まれ、昭和35年(1960年)に完成し、現在も両地区の懸け橋となっている。