手漉き和紙

現在、大竹市は広島県内では唯一、手漉き和紙が残っている地域となっています。

大竹の手漉き和紙は、江戸時代初期の頃から始まったとされ、大正時代に最盛期を迎えました。

大竹地区で和紙生産が盛んになったのにはいくつか要因が考えられます。

一つは、広島県と山口県の県境を流れる小瀬川は、水量が豊富なうえに、きれいで緩やかに流れ、和紙生産に適した川であったことが考えられます。

また、この地域が和紙の原料の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)を産出する山代地区(山口県玖珂郡北部)と近かったことも要因の一つだと考えられます。

さらに、この地区は耕地が狭小で、農業生産だけでは生活が困難であり、藩主・給主等による生産奨励もあり、生活の糧として、和紙生産が盛んになったと考えられます。

 

和紙生産の始まり

小瀬川流域の和紙生産がいつ頃から始まったかについては諸説ありますが、次のような説が伝えられています。

① 元和元年(1615年)、伊予(愛媛県)の国の川上の人が、疱瘡平癒を祈願するため、大竹村の大瀧神社に参拝したとき、製紙の技法を当時の神官の所氏に伝え、所氏はその技法を佐伯屋亀五郎という人に託し、研究開発を実施して和紙の製造を始めたと言われています。

② 岩国領小瀬村柚木迫の太郎右衛門という人が、天正年間(1573年~1592年)に上方から製紙の技法を導入したと言われています。

③ 大竹地区の古老の話によると、大竹の手漉き和紙は、岩国と同時期に始まったと言われています。

これらの諸説から推察すると、小瀬川流域の和紙生産は、江戸時代の初期から中期にかけて、近隣先進地から技法が伝えられ、生産が始まったと考えられます。

 

和紙の専売制

広島藩において、紙・楮に本格的な専売制がしかれたのは、宝永3年(1706年)、広島に紙座(後に紙蔵)が設置されてからになります。

大竹市域の村の紙に対しては、元禄14年(1701年)に給主である上田氏の専売制に組み入れられました。このとき、上田氏は、勘定所詰紙奉行・紙方役人を任命し、大竹市域の小方村には紙見取役所並びに紙蔵を設けました。そして、紙方役人2人と村抱えの下役が、10月から4月まで毎日出張して、半紙・小半紙の見取りをして、大阪等に送っていました。

このような給主による専売制における小瀬川流域の和紙生産は、半紙や塵紙を主としていましたが、他に諸口(もろくち:障子紙に用いるもの)や傘紙なども生産されていました。

正徳2年(1712年)の小方村の記録によると、紙405丸上納の算用目録があり、その後、文政2年(1819年)には、上田氏の給知の紙漉きをしている18か村の紙漉き人3,026人の9割に相当する2,731人が大竹市域で紙漉きに従事したとの記録があります。

また、それらの製品は、「逢いはせなんだか播磨の灘で 芸州大竹の紙船に」と言われたように、盛んに大阪方面に送られ、文政2年には半紙1251丸、塵紙1785丸が大阪に送られ、大阪では「小方」の名で通っていました。

※1丸=半紙6締、半紙1締=半紙2,000枚

このような和紙生産も慶応2年(1866年)の長州戦争で大打撃を受け、生産が一時停止しましたが、藩主・給主の助成により、生産は徐々に回復しました。

明治2年(1869年)9月、俸禄返上によって、家老給知もすべて蔵入地とされたため、紙方役所は廃止され給主の専売制はすべて郡方に移管されました。

そして、明治5年(1872年)11月、県布達により、紙楮支配役・改役が廃止され、紙・楮の売買はすべて自由とされ、紙漉き人や仲買人等は免許税を納め、鑑札を受けて営業することとなりました。

これにより、紙専売制も完全に終わり、和紙産業がさらに発展することになりました。

 

問屋制家内工業の発達

専売制の廃止後は、従来の藩主・給主に変わり、産地問屋が生まれ、問屋制家内工業で生産が行われるようになりました。

これは、仲買人によって玖北一帯(山口県玖珂郡北部)から楮や三椏が買い集められ、問屋に納入され、問屋が手漉き人に原料を前貸しして、その製品を買い取る制度でした。後になると、問屋自身が原料の生産者から直接仕入れを行い、手漉き人に委託加工させるようになりました。

明治5年(1872年)の記録によると、紙・楮・反古の仲買人は、大竹・木野・小方の3つの村で13軒あったそうですが、その後、紙問屋自身が直接産地におもむき、紙・楮を買い集めるようになると、仲買人は5、6軒に減少したと言われています。

紙問屋は、仕入れた和紙を東京をはじめとして京都、大阪、九州方面、さらに朝鮮半島まで売りさばき、木野川(小瀬川)紙の名を内外に高め、巨利を得たと言われています。

しかし、手漉き業者のほとんどは、紙問屋から原料を渡され、1締いくらかの漉き賃を払う委託加工であり、収入はよくなく、ほとんどが問屋からの前借りに追われていたそうです。そのため、生産条件の悪い7月、8月でも生産を続ける状態であり、その命脈は問屋に握られ、紙子として従属していました。

このような問屋制家内工業にあって、一部の有力問屋は、技術発展、市場拡大に刺激され、工場制手工業、さらに機械制工業へと向かう業者も現われました。

明治39年(1906年)5月、大竹村の有志の二階堂三郎左衛門、望戸虎佑らが中心となり、株式会社製紙場義済堂と合議の上、芸防抄紙株式会社(資本金10万円)を和木村瀬田に設立して、翌明治40年(1907年)4月、手漉きによる鳥ノ子紙の製造を開始しました。

この工場は、職工数130余名(明治41年現在)で、大規模な工場として発足し、明治44年(1911年)12月1日には、丸網式抄紙機を1台、4月にもう1台設置して、改良半紙の製造を行う機械制工業へと発展していきました。

この会社は、後の日本紙業芸防工場の前身となりました。

小瀬川流域には、大正期以後において、工場制手工業による製紙・加工紙工場が10か所にも建設され、そのうち2~3の工場は機械化が進められました。

しかしながら、大勢は従来通りの家内工業制の域を出ず、機械製紙による圧迫によって苦しい生活が続いていました。

 

技術改良と和紙生産技術の発達

明治5年(1872年)に専売制が廃止されると、紙の生産・販売は自由になりましたが、その反面、専売制の時代のような手厚い保護や紙質の検査等も行われなくなり、販路も縮小していきました。

そこで、粗製濫造を改め、紙の価格の向上を図るため、明治14年(1881年)に製紙審査を行う大竹会社が設立され、以後各地に製紙組合が設立され、業界の統制と改善指導に乗り出しました。

また、内国勧業博覧会や製紙品評会等への出品、製紙講習会を通じての品質の改良、生産能率の向上も図られました。

一方で、明治15年(1882年)に四枚漉法が導入され、一枚漉きの器具を四枚漉きの器具に改め、座業装置を立ち仕事装置にする改良が行われました。

さらに明治38年(1905年)には八枚漉法、大正3年(1914年)には十五枚漉法がそれぞれ導入され、生産も大いに増大しました。

作業工程も原料の叩解をたたき棒から機械叩解(ピーター)へ、乾板による天日乾燥を蒸気乾燥器に切り替えるなどの改良が行われました。煮熱剤も、従来の木灰から石灰、苛性ソーダに改良され、原料の溶解作業が容易になりました。

このような手漉き和紙の技術改良によって、和紙の生産能率が向上し、経済好況にも恵まれ、盛んになりつつあった機械漉きによる和紙・洋紙に負けることなく、生産量は着実に増加していきました。

大竹市域(大竹・木野・小方)の和紙は、明治23年(1890年)には製紙家392戸、生産額64,000円であったものが、最盛期の大正8年(1916年)には製紙家1,000戸、生産額946,000円にも達し、この29年間で生産額は15倍にも増大しています。

 

手漉き和紙の衰退

大正9年(1920年)、第一次世界大戦に不況を境として、大竹市域の手漉き和紙は、しだいに衰退していくようになりました。

芸防抄紙株式会社が機械制工業に転換した明治42年(1909年)頃、三椏利用による機械漉き改良半紙の製造が始まり、大正9年(1920年)にはマニラ麻利用の機械漉きが出回るようになって、大竹市域の手漉き和紙業者はひどい打撃を受けました。

また、学校での洋紙の普及やガラス戸の普及など、生活様式の変化による和紙需要の減少が、手漉き和紙の衰退にさらに拍車をかけました。

最盛期の大正8年には大竹市域で1,000戸あった製紙家は、そのわずか2年後の大正10年には60%が廃業し、400戸になっていました。

その後も大竹市域の手漉き和紙は衰退を続け、大竹市域の製紙家は、昭和23年(1948年)には105戸に、昭和37年(1963年)には22戸に、昭和58年(1984年)には2戸になり、現在、大竹市域で手漉き和紙を業として行っているところはありません。

現在、大竹の手漉き和紙は、大竹の伝統産業として、「おおたけ手すき和紙保存会」が中心となって、保存・伝承に努めています。