長州戦争(芸州口の戦い)

長州の疫古戦場跡1850年頃の幕末の時代、長州藩(山口県)との国境にある大竹は戦いの最前線となり、その影響を大きく受けることになりました。

嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の使節ペリーが来航し、約250年続いた幕藩体制は揺らぎ始めました。

幕府に反対する勢力が台頭し、その筆頭格が長州藩でした。

長州藩は、文久3年(1863年)8月18日に倒幕の兵を挙げましたが、薩摩藩(鹿児島県)や会津藩(福島県)らに阻止され、長州藩は京都から追放され、朝廷への影響力を失って力を落としていきます(8月18日の政変)。

しかし、翌年には長州藩の一部の勢力が、再度幕府に対して挙兵しました(禁門の変)。京都市中で激しい戦闘が行われましたが、長州藩は敗北し、さらに京都御所(朝廷)に銃を向けたとされ、朝廷の敵(朝敵)となってしまいました。

 

第一次長州征討

元治元年(1864年)、朝廷の命令により、幕府は西国の諸藩に対して長州への出動を命じました。

前尾張藩主の徳川慶勝を征長総督に、副将に越前藩主の松平茂昭を任命し、広島城には3万の兵が集結しました。

大竹市域でも、静かな庶民の暮らしが一変し、幕府軍の兵糧確保のために人夫が動員され、玖波駅には白米百石が集められ、さらに桶や平釜にいたるまで用意を命令されました。

小方に知行を持つ上田氏も小方村に陣屋を構え、木野一馬以下15人の家臣を配置し、最前線の警護にあたったとされています。

幕府軍は、長州藩が罪を認めれば寛大な処置をとるという方針であり、集まった各藩も決して戦いには乗り気ではありませんでした。

また、長州藩も禁門の変などの影響で幕府と戦える状況ではなく、禁門の変の首謀者とされる3人の家老 益田右衛門介、福原越後、国司信濃の首を広島城下国泰寺境内に差し出し、謝罪降伏を申し出ました。

これにより第一次長州征伐は、直接の戦闘は回避され、全軍撤退しました。

佐伯や大竹は諸藩が支払った費用で潤ったと言われていますが、戦時体制化にあって船舶の運航が差し止められ、生活に大きな支障が出たとも言われています。

 

第二次長州征討

第一次長州征討から2年後の慶応2年(1866年)、長州藩は薩摩藩と同盟を結び、密かに武器の調達を行って軍備の近代化を図るなど、倒幕に備えました。

こうした長州藩の動きを察知した幕府は、再び諸藩に長州への出動を命じ、尾張藩主 徳川茂徳を先手総督として、彦根藩主 井伊直憲、高田藩主 榊原政敬を先鋒に、広島藩ほか11藩に従軍の命令を出しました。

しかし、薩摩藩はすでに長州藩と同盟関係にあり、幕府の出兵要請を拒否しました。

また、広島藩も先鋒役を辞退している。そのため、広島藩は幕府軍の諸藩から「広島藩を攻撃しろ」という声が出るなど、幕府と長州藩のどちらからも攻撃されかねない苦しい状況にありました。

第二次長州征討では、朝廷から長州征討の命令がなかなか出されず、諸藩は足並みが揃っていない状況でした。

一方、長州藩は、第一次長州征討以来、戦いに備えて軍備を整えており、幕府軍を迎え討つ構えでした。

また、この戦いは、「四境戦争」とも呼ばれており、幕府軍は、「芸州口」、「周防大島口」、「石州口」、「小倉口」の4方面から長州藩を攻め込みました。

 

芸州口の戦い

第二次長州征討において、広島城に集結した幕府軍は、彦根藩(滋賀県)、紀伊藩(和歌山県)、高田藩(新潟県)、与板藩(新潟県)など3万の軍勢に達していました。

そして、慶応2年(1866年)6月13日には、彦根藩と与板藩の兵は油見村顕徳寺に陣を置き、その日のうちに彦根軍の500の兵は大竹村の大瀧神社に進み、一部は小瀬川(現在の大和橋付近)に布陣しました。

高田軍陣地
苦の坂古戦場(高田軍陣地)

また、高田藩は、13日の夜に大野から小方に進み、苦の坂への進撃のために同夜立戸の山に布陣し、一部は与板藩の兵とともに小島新開に陣を置きました。

13日夜の10時頃、大竹側から大砲が三発発射されましたが、対岸の和木側は静かなままで、誰も陣取っていないといった様子だったと言われています。

迎え撃つ長州藩は、岩国兵が主力となりました。これに長州藩の部隊である御楯隊・吉敷隊などが加わり、和木村の川岸の竹やぶに陣を敷き、息を凝らして待ち受けていた。

小瀬川口の総督は、岩国領主(藩主)の吉川経幹(監物)があたり、長州藩の宍戸備前を総大将とした各諸隊は、関戸の峠を越えて小瀬村に入り、苦の坂に近い小原に陣を置いた。

また、一部の隊は、13日夜にはすでに大竹側の中津原(現在の木野一丁目)に進み、夜明けを待っていた。

翌14日早朝、彦根藩は竹原七郎平と曽根佐十郎を使者に立て、小瀬川を渡らせました。

竹原七朗平は、封書を高く掲げ、川を渡っていましたが、川の中央に差しかかったとき、対岸から一斉に銃撃に遭い、2人とも撃たれ倒れてしまいました。

使者が狙撃され、そのまま戦闘が開始されました。

小瀬川を渡ろうとする彦根軍は、和木村川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられるなど、壮絶な戦闘状態になり、小瀬川が地の海になったと言われています。

彦根軍も抵抗し、互角に戦っていましたが、関戸から進入した長州軍が二手に分かれ、一隊は木野村の山から大竹村に入り、大龍寺(現在の元町二丁目)辺りからに彦根軍を背後から挟み打ちにしたため、彦根軍はついに総崩れとなり、小島新開に敗走しました。

敗走した兵は小島新開に用意してあった舟により沖に逃れましたが、小島新開を守備していた与板藩の兵が先に撤退乗船していたため、逃げ遅れた多くの彦根藩の兵が長州藩の追撃に遭い、多くの戦死者を出しました。

苦の坂口
苦の坂の入口

その頃、苦の坂では、高田藩が立戸の山から苦の坂に1,000の兵を進めていましたが、長州藩の宍戸備前が率いる200人ほどの隊と対峙し、激しい戦闘を展開しましたが、持ちこたえられず小方に追い返されました。

長州藩は、兵の数は少ないものの当時最新鋭のフランスのミニエー銃を用い、旧式の装備の幕府軍を圧倒しました。そして、高田藩は、そのまま東に退却し、玖波の港から大野四十八坂を越えて戦場から逃れました。

その間に、大竹・油見の町は火の手が上がり、立戸・小方・玖波にまで広がり、町全体が火の海になりました。

こうして、長州藩は玖波村まで進撃しますが、それ以上は進むことができず、玖波・小方・苦の坂に警備隊を配置して、全軍中津原の本陣に引き上げました。

その後、幕府軍は戦力の立て直しを図り、西洋式の装備を持つ紀州藩が投入されました。

6月19日、大野四十八坂で再び戦闘が行われましたが、長州軍がいくら押しても紀州藩の兵は引くことはなく、引き分けとなりました。

その後も各地で戦闘が行われましたが、一進一退を続け、こう着状態となりました。

9月2日、幕府は勝海舟を派遣し、宮島の大願寺において、長州藩の広沢兵助らと交渉が行われ、両軍とも追い打ちをしないことを確約し、停戦となりました。

芸州口の戦いは、引き分けに終わりましたが、周防大島口、小倉口、石州口では幕府は完敗しました。

そのため、幕府の威信を大きく失墜し、そして翌慶応3年(1887年)10月14日、第15代将軍徳川慶喜により「大政奉還」がなされ、264年続いた徳川幕府は終わりました。

 

大竹市域の被害の状況

芸州口の戦いにより、大竹市域の町は大きな被害を受けました。

慶応2年の玖珂郡用諸事控に被害の状況が記録されています。

村名 居宅 部屋 土蔵 納屋 長屋 借家 その他 罹災者合計
大竹村 892 22 102 125     25 3,476
小島新開 28   2 20     3 304
油見村 12   1   6     244
小方村 232   16 31       2,320
立戸 54   3 12        
玖波村 286   42 51   139 49 1,688
黒川村 48   1 19   48 1 248
合計 1,552 22 173 258 6 187 78 8,280

 
※ その他とは、牛屋・道場・諸役所など。
  上記には含まれていない重要消失建物に「玖波本陣」と「上田氏屋敷」がある。

 

「長州之役戦跡」の碑

長州の疫戦跡の碑明治百年を記念して、昭和43年12月、芸州口の戦いで、激戦の行われた小瀬川を見つめるように、青木神社境内に記念碑が建てられました。

この碑は、平成16年1月に、境内より前面の小瀬川河川敷内の青木公園に移設されました。 

所在地  大竹市新町三丁目(青木公園内)
建立年 昭和43年(1968年) 石の種類 花崗岩
高さ 160cm 横幅 110cm
表記文字(表) 慶応二年五月二十八日長州藩応戦を布告幕府の先陣井伊榊原軍ここ大竹口に陣を進め木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す
六月十四日未明戦いの火蓋は切られ両軍大竹口で激戦幕府軍敗走す死傷者多数兵火により家財を失う者九千人にのぼる
九月二日両軍の休戦成りこれより中央政局は西南藩に指導され明治維新へと動く
表記文字(裏)  明治百年記念
    昭和四十三年十二月
     大竹市建立

 

竹原七郎兵のその後

慶応2年(1866年)6月14日早朝、彦根藩の竹原七郎平と曽根佐十郎は、幕府軍の使者として馬に乗って小瀬川を渡っていました。

封書を高く掲げた竹原七郎平は、川の半ばで「岩国戢翼団(しゅうよくだん)」に狙撃され、落馬して倒れました。

岩国戢翼団の団長の品川清兵衛が、竹原七郎平の首を切り落とし、首実検の後に、現在の岩国市室ノ木の水ノ浦に埋めました

竹原七郎平は、彦根藩一番手の木股土佐隊の使番で俸禄は120石、竹原与惣左エ門の長男で竹原家9代目当主にあたり、享年39歳でした。

埋葬前に竹原七郎平の身につけているものの中にお守り袋があり、その中から一通の手紙が出てきました。

手紙は竹原七郎平の妻からで、「あなたが出陣してから息子が亡くなりました。四十九日の法要もすませましたが、芸州方面の滞在なら仕方がない。戦功を立てて一日も早く帰ってきてほしい」というものでした。

これを読んだ品川清兵衛も、実は最近息子を亡くしたばかりであり、竹原七郎平の胸中を思い涙を流したと言われます。

芸州口の戦いが終わった後、品川清兵衛は自ら和木村安禅寺境内に「彦根戦士の墓」を建立しました。

 

大竹村の農兵の死

慶応2年(1866年)6月14日早朝、芸州口の戦いが始まりました。
岩国藩の兵は、優勢な砲火のもと小瀬川を押し渡り、幕府軍の追撃を開始し、そのうちの一隊は光明寺(元町三丁目)の裏山に向かって登り始めました。

そこで、大河原山から下りてくる大竹村の権之助と岩吉に出くわしました。

岩国藩の兵士が「何者か!」ととがめると、
権之助と岩吉は、岩国兵を幕府兵と勘違いして、「わしらは大竹村の農兵だ。長州兵は後ろの山に登って行った」と答えてしまいました。
岩国兵は、彼らを幕府軍の兵士と思い、殺しました。

この権之助と岩吉の無残な死に、親兄弟は悲嘆に暮れ、その姿はとても不憫であったそうです。
家族の手で祭られたのか、ふもとから100mくらい登ったところにお地蔵さんが安置され、像の右側に「六月十四日」の文字が刻まれています。

当時、戦火を避けて山中の仮小屋に住んだ村人も多く、彼らもそうした家族の一員であったのかもしれません。

 

残念さん

芸州口の戦いが始まってから1か月ほどした頃、戦況はこう着状態が続いていました。

7月12日、大野四十八坂では、宮津藩士の依田伴蔵という者が主君の命により、使者として長州藩に向かっていました。

長州藩の兵が依田伴蔵を見つけ、銃口を構えました。依田伴蔵は、声高く「使者じゃ、使者じゃ」と叫びましたが、それと同時に銃口が火を噴き、依田伴蔵を撃ち抜きました。

依田伴蔵は、馬上から大声で「残念!」と叫び、落馬しました。

後に、村人たちによって依田神社が建てられ、「残念さん」として現在も地域の人たちによって供養されています。

 

中津原庄屋

芸州口の戦いの前日、長州軍は宍戸備前を総大将として、関戸の峠を越えて川を渡り、中津原に進駐して、その日は中津原庄屋を中心に宿営しました。

長州兵が庄屋に入ると、当主と少し話をした後に、すたすたと土足で堂々と上がってきました。それを見た当主は首が飛ぶのを恐れず、「もし、お侍さん、いかに世直し長州武士とて、土足で上がるとは何たる無礼。脱いで上がってください」声高に言いました。

さすがの長州兵も一言もなく、数人の武士が急いで履物を脱ぎ始め、「そちの言うとおりじゃ。大変な無礼を許されぇ」と、意外に素直に応じてくれたので、当主は拍子が抜けるやら嬉しいやらであったと言います。

中津原(木野一丁目)から木野(木野二丁目)にかけては、戦闘の最前線にありましたが、幕府軍を村内に入れることなく、小方方面に追いだしたので、焼き打ちの被害は免れました。

村人たちはほとんど三ツ石に逃れましたが、一部の婦人方が戻り、炊き出しなどして長州軍に協力したと伝えられています。

 

城六兵衛

芸州口の戦いが開戦した翌日の6月15日、広島藩では佐伯郡の代官 山田喜和馬に命じて、郡衛徒士の城六兵衛ら4人を焼き払われた町の視察のために玖波に向かわせました。

城六兵衛らは舟で玖波に向かいましたが、玖波の沖合で、長州兵に見つかりました。長州兵は、幕府軍の舟と思い、銃口を構えて一斉射撃を開始しました。城六兵衛は「芸州藩の役人じゃ、銃を収めてくだされ」と大声で叫びましたが、長州軍の銃撃は止まず、無念にも城六兵衛は胸を撃ち抜かれました。

「あっ」と叫んだのが最後で、ほとんど即死であったと言われています。

この事件に対し、長州方は謝罪し、厳神社境内に顕彰碑(木碑)が建てられました。

 

西念寺の砲弾跡

西念寺砲弾跡芸州口の戦いも終盤に入った頃、西念寺は長州軍の本陣となっていました。

8月2日昼下がり、それを察知した幕府は宮島の須屋浦から軍艦2隻と和船4隻が小方沖に近づけ、西念寺に向かって艦砲射撃を開始しました。

その一発が、本堂入り口上部の桁・梁を支える肘木をぶち貫きました。

西念寺では、今もその傷跡がそのままの状況で残されています。

 

筑前浪人 名越忠蔵

大竹村では、江戸中期の享保年間(1716年~1735年)の頃に「原健甫武応」によって武道が盛んになり、今日まで「難波一甫流」が受け継がれています。

そうした中にあって、幕末の時代に、流派は違いますが、名越忠蔵という弓道武士が登場します。

元治元年(1864年)に大竹村にやってきた筑前浪人 名越忠蔵は、大竹の村人に武芸を指南していました。名越忠蔵は、村の人たちと山中に小屋を構え、芸州口の戦いの際も、兵火を避け、関わりを持ってはいませんでした。

ところが、二人組の長州兵が小屋を訪ねてきました。長州兵は名越忠蔵と世間話をしていましたが、その内一人が「名越殿、ご婦人に聞かせたくない話がござる。ご足労だが、ちょっとそこまでご同行願おう」といって連れ出した。

名越忠蔵の前後を長州兵が挟むようにして歩き、小屋の曲がり角まで来たとき、後ろの長州兵が名越忠蔵の背後から肩先めがけて切りつけてきました。

「何をなさるか」と名越忠蔵はとがめ、刀の柄に手をかけましたが、今度は前の長州兵が振り向きざまに脇腹深く刀を突き刺し、さらに小屋の陰に隠れていた3人目の長州兵が走り出て、名越忠蔵の首を討ち落としました。

長州兵はなぜ戦いに加担していない名越忠蔵を討ったのかはわかりません。しかし、村で多少とも武芸の心得のある者は、能美島や倉橋島に妻子を連れて逃げたと言われ、その者たちの島での暮らしは極限に達していたと伝えられています。