戦争と原爆

大正時代末期から昭和初期にかけての経済不況と絡み、日本は戦争へと進みます。
大竹市域でも戦争によって大きな影響を受けることになりました。

昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件が起こり、日本と中華民国は戦争状態になり、国内は一気に戦時体制となりました。
挙国一致・尽忠報国・堅忍持久などのスローガンのもとに国民思想の啓蒙が図られ、大竹市でも講演会や映画会がたびたび開催されました。
大竹町では、大竹座において国民精神総動員町民大会を開催し、挙国一致体制への宣言文などを採択しました。
経済においても統制が実施され、昭和14年には大竹市域の町村にも経済更生委員会が設置され、国の施策にしたがって重要農林水産物の維持・増産や物資の配給、労働力の需給調整などが図られました。

昭和14年(1939年)10月、政府は戦争遂行という至上命題から独裁的な政治体制の確立を目指して、大政翼賛会を発足させました。これによって、各町村にその支部が結成されることになり、大竹支部は昭和16年4月5日に大竹町青年会館で結成されました。
そして、昭和17年5月には、大政翼賛体制で初めての町村議会議員の選挙があり、大竹町では地域別に選考会が設けられ、選考会で大部分の候補者が選考された後に選挙が行われ、その結果、前議員12人(うち選考者9人)と新人12人(全員選考者)が当選しました。
また、大政翼賛会の結成と前後して、部落会・町内会も組織化され、翼賛運動の実践者として活動することになりました。この頃の部落会・町内会の主な役割は、貯蓄推進、生活必需品の配給、防空訓練、出征軍人家族の援護などで、戦時思想を徹底し、相互の連絡協調を図ることにありました。

昭和16年(1941年)12月、ついに日本とアメリカの間に太平洋戦争が勃発します。
緒戦の戦果が伝えられる中で、応召兵士は続々と戦場に送られ、市域の各町村では、各所で武運長久の祈願祭や戦争報告祭が開催されました。
しかし、戦争による物資の不足はこの頃から目立ち始め、昭和16年(1941年)に生活必需品の配給統制が開始されることになり、国民は耐乏生活を強いられ、食糧増産、金属回収、国債・貯蓄などの割当実施などを強制されることになりました。

昭和19年(19444年)になると戦局は急激に悪化し、政府は決戦非常措置要綱を発表し、戦力増強体制を協力に推進しようとしました。各町村もこれに対応して役場の休日返上、町内会の強化等を行い、決戦体制に備えました。
昭和19年(1944年)4月からは、国民学校高等科児童・青年学校生徒も勤労奉仕に動員されることになり、各町内会・部落会では松根の採掘、山林の開墾が強制され、割当を達成することに懸命となっていました。町村営の松根油製造工場も各所に設けられ、市域沿岸部では塩の生産も開始されました。

空襲油庫
しかし、昭和20年(1945年)に入り、広島県下の空襲は一段と厳しさを増し、各所に防空壕が掘られました。5月10日には和木村の岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布製油所が約130機のB29による爆撃を受け、甚大な被害があり、両工場に勤務していた市域住民にも多数の死傷者が出ました(大竹町では死者37人、負傷者10人のほか、家屋全壊1戸、半壊1戸の被害がありました)。

昭和20年6月には国民義勇隊が編成されます。これは隣組単位に小隊、部落会・町内会単位に中隊、町村単位に大隊を置き、男子15歳から60歳まで、女子17歳から40歳までの者をすべて義勇隊とするものでした。また、7月には佐伯郡下の国民学校と青年学徒隊も結成されました。

昭和20年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されます。市域の住民にも大きな被害をもたらしましたが、なかでも大竹・小方・玖波の各地域から広島市に入っていた義勇隊や学徒隊の被害が大きく、極めて悲惨なものでした。

こうして、市域は被爆者への対応に追われるうちに終戦を迎えました。