悪鼠騒動記

阿多田06阿多田島には、江戸時代から明治にかけて悪鼠(悪いネズミ)が大量に発生したという事件が何度もあったそうです。

 このことは阿多田島の古い文書に記録されており、正徳2年から明治41年の197年間、阿多田島での悪鼠発生から退散までの苦心の歴史が記されています。

現在、明治41年に当時の阿多田島区長が古い文書を書き写した「阿多田島悪鼠履歴取調書」が残されており、これを現代語に訳します。

 

阿多田島悪鼠履歴取調書(現代語訳)

阿多田島に初めて悪鼠が発生したのは、今(明治41年)から197年前の正徳2年(1712年)10月の初旬です。

阿多田島で鰯漁をしていた新屋三右衛門は、周防の国(山口県)大島郡八代浦字小泊の沿海で鰯が大量に獲れるということを聞き、漁夫35人を船に乗せて、阿多田島から小泊沖合に向かいました。

小泊での漁は大漁だったので、漁夫たちが大いに喜んでいると、小泊村の人たちが「鰯が欲しい」と言って来たので、鰯を分けてあげました。

ある日、三右衛門が再び小泊で鰯漁をしていたところ、小泊村の人たちが20人ほど船に乗って現れ、「今日獲れた鰯の半分をくれなければ、今後この海で漁はさせないぞ」と言って、三右衛門の船に乗り込んできて、鰯を力ずくで奪っていこうとしました。

三右衛門たちは怒り、口論となりましたが、ついにケンカになってしまいました。木の板や竿、船の梶での叩き合いになり、その結果、双方に多数の負傷者が出て、小泊村の茂左衛門という人が死んでしまいました。

茂左衛門の遺体は父親に引き渡され、三右衛門たちは、茂左衛門を殺した罪により、小泊村の役場に呼び出されて尋問を受けることになりました。

一方、阿多田島には急船が着き、阿多田島の役人の名島平右衛門に事件の次第が届けられました。

平右衛門は、すぐに小方村の庄屋の和田孫右衛門に事件を伝えました。孫右衛門はとても驚いて、そのまま佐伯郡の郡奉行に急行しました。

郡奉行の小田権六は、小方村庄屋の孫右衛門と阿多田島役人の平右衛門に命じ、彼らを大島郡の小泊に向かわせました。そして、彼らは大島郡の郡奉行と三右衛門たちの処分について話し合いを始めました。

大島郡の郡奉行は、名島精春という人で、毛利照元の家臣の名島家三兄弟の一人の子孫で、阿多田島役人の名島平右衛門とは親族の間柄でした。

数日間の話し合いの結果、他国の漁の船に乗り込み、勝手に魚を奪っていくことは泥棒と同じであり、それに抵抗されて茂左衛門が死んでしまったことは仕方がないと判断され、三右衛門たちは無罪となりました。

三右衛門たちは大いに喜び、村役人と一緒に阿多田島に帰っていきました。

亡くなった茂左衛門の父親は神官でした。父親は、茂左衛門の遺体を引き取った後、墓地に埋葬しましたが、その墓前で「おまえは阿多田島の人たちに命を奪われ、その上、泥棒と言われた。このことは無念でしょうがない。おまえの霊魂は今もこの世に留まっている。阿多田島に行き、この無念を晴らしてこい」と言い、墓前において21日間の祈祷を行いました。

不思議なことに、その年の11月末の頃、阿多田島南方に数千匹の大鼠が夜中に海上を泳いで渡ってきました。鼠は、島内あちこちに散らばり、漁に使う網や縄を切ったり、農作物は食い荒らしたり、家中の物品を壊して回ったり、島内に甚大な被害が出ました。

島民は困ってしまい、有名な易者に尋ねたところ、易者は「悪鼠が出たのはこの島の漁夫が八代浦において人を殺したからであり、その霊魂が鼠となり、阿多田島にやってきて怨念を晴らそうと害を与えている。これを放っておけば、被害はますますひどくなる」と言いました。

島民は集会を開き、このことを小方村庄屋の和田孫右衛門と郡奉行の小田権六に伝えました。

そして、郡役所の検視役人が鼠を調べるため、数百匹の鼠を捕まえて送ったところ、その鼠は猫のように大きく、足には鴨のような水かきがあったので、検視役人は大変驚き、この鼠を「海鼠」と名づけました。

この事件が広島城代にも報告されると、広島でも「これは大きな問題である」と思われ、安芸郡江野宮神社の神官の田所勝券が阿多田島に渡り、阿多田神社において悪鼠退散のため7日間の祈祷が行われました。また、厳島神社においても7日間の祈祷が行われました。

阿多田大明神の社の前では、悪鼠退散の成就のため、胡子神社という社殿を建立して、茂左衛門胡子の像を彫刻し、一宮の神に祭りました。これは鼠神社として現在も伝わっています。

そして、正徳2年12月10日、悪鼠が退散し、島民は大いに喜びました。

その後、宝暦12年(1763年)10月中頃、再び悪鼠が大発生し、例のように網や綱を切り、農作物を食い荒らすなど大きな被害が出たので、再び小方村の庄屋から郡奉行に届け出て、厳島神社において祈祷を行ったところ、悪鼠は退散しました。

そして、文化8年(1812年)10月10日、またまた悪鼠が発生したので、小方村庄屋に願い出て、玖波村の神官である西村氏が阿多田島に渡り、阿多田神社の前で7日7夜の祈祷を行い、茂左衛門胡子像を再び彫刻したところ、悪鼠はすぐに静まりました。

文久3年(1863年)9月、またも悪鼠が大発生し、阿多田島役人の名島伊三郎は、小方村庄屋の和田吉左衛門に願い出ました。

郡奉行が検視のため、阿多田島に渡ってきましたが、折悪く鼠が10匹くらいしか捕まえられず、郡奉行は腹を立てて帰っていってしまいました。

小方村庄屋の吉左衛門はこれはまずいと思い、阿多田島に渡り、島民に鼠の捕獲を命じ、今度は島民総出で数千匹の鼠を捕獲しました。

吉左衛門は喜び、郡役所に鼠を持参し、検視を受けました。郡役人はとても驚き、広島城の浅野の殿様に鼠を差し出しました。鼠を見て殿様も驚き、家臣に鼠退散の祈祷をするよう命じました。

そして、厳島神社において、悪鼠退散の祈祷が行われ、僧侶が経文数千巻を唱えました。また、そのとき、阿多田島では、江野神宮の田所正券を迎え、阿多田島神社で7日7夜の祈祷を行いました。これにより、悪鼠は退散しました。

明治30年(1897年)の旧8月、またも悪鼠は大発生しました。島民は阿多田島区長の名島重太郎に願い出て、山口県玖珂郡今津村の宇津神社神官を迎え、阿多田島神社において3日3夜の祈祷による悪鼠退散の祭事を行いました。その結果、8月15日に鼠はいなくなりました。

この祭事において、呉海軍造船所に勤めていた田所正券の子孫の田所常吉を迎えようとしましたが、公務のため来られなかったそうです。

明治39年(1906年)の旧11月、悪鼠が大発生しました。島民集会の結果、悪鼠退散の祭事を行うことになり、区長の名島重太郎は佐伯郡役所に届け出ると同時に、山口県玖珂郡今津村の宇津神社神官を迎え、阿多田島神社において悪鼠退散の祈祷を行いました。

そして、悪鼠は退散し、正徳2年から明治41年までの197年間にわたり、阿多田島の島民を苦しめた悪鼠被害は終息しました。

 

あとがき

「阿多田島悪鼠履歴取調書」にあるように、阿多田島の悪鼠撲滅には各所の神職による祈祷が行われたようですが、その証拠として、安芸郡江野宮田所神官による悪鼠退散の祈祷の守護のお札が神社に奉納されています。

科学技術などがそれほど発達していない時代、鼠の大量発生といった奇妙な事件が起こると、当時としては神仏に頼る以外に方法がなかったのかもしれません。

明治中期以降、麻里布村(現在の岩国市麻里布)等から殺鼠剤が導入され、島内全域に殺鼠班を設置し、薬剤を散布することによってようやく鼠を撲滅したようです。