「木野」の歴史

かつて木野地区は、現在の木野一丁目を「中津原」、木野二丁目を「上木野」と呼び、それぞれ異なった地理的環境の中に木野村として集落を形成していました。
近年では「中津原」や「上木野」という呼び名も聞かれなくなりました。

 

木野川(小瀬川)

山口県側小瀬垰(たお)(峠=現在ではこの字が使われる)から苦の坂峠に向かって直線的に地層が割れ溪谷をなしています。
こうした狭い谷あいを流れる川を、古くから安芸の国では「木野川」と呼んで親しんできました。

木野川は安芸と周防の国境であるが故に古文書や古絵図などには、「小瀬川」「大竹川」「御境川」「境川」「大川」幾つもの呼び名があります。
これほどたくさんの呼び名がある川は全国的にも珍しいといわれます。
昭和43年(1968年)、川の名称は河口に向かって右岸の地名を当てるという、国の行政上の原則からか、長く親しんだ「木野川」の名称は消え、「小瀬川」に統一されました。

かつて、木野二丁目地区内に「一級河川小瀬川」の大きな看板を設置させてほしいと要請がありましたが、木野地区の人は「木野川」なら喜んで提供しようとはっきり断ったという逸話があります。

広島県側の台地は、「広島型花崗岩」に覆われていますが、僅かに木野地区から後飯谷辺りまで、小瀬川を押し渡り「粘板岩玖珂層群」の地層となっています。また市域沿岸部もこの地区から亀居公園辺りまで半島の如く伸びています。

特に木野地区から川手地区は小瀬川沿線の中でも、険しい粘板岩がそそり立っている中で集落が形成されています。

 

土砂の力で中州を形成 田園の少ない村

木野村の時代には、全国で2番目に田圃の少ない村といわれてきました。
それは江戸時代を通して村の収穫高を示す「石高」が、他の村は新田開発などで増加しているのに、木野村だけは「66石」から増加することはなかった特異的な村でした。

木野一丁目の中津原地区は、小瀬川により長い年月により土砂が堆積し、お椀状に広い陸地ができています。
その昔、川筋が定まらない時代に現在の両国橋辺りの山裾を東に這うように、一つの川が町家通りを流れていたといわれ、本流との間に中州ができていたといわれています。
そこで中州原と呼ぶようになったといい、後に「中津原」の名で呼ばれるようになりました。

木野一丁目中津原に人々が安住の地として住めるようになったのは、中世後期になってからといわれています。その手助けとなったのは二カ所の強固な岩盤が関わったと考えています。

木野二丁目上木野地区から直線的に流れる水の勢いが、山口県側両国橋の上流約100mのところにある岩場に当たり、方向を一気に左に変え中津原の山裾に流れを作り、長い年月をかけ徐々に陸地化へ向かって運動を繰り返しました。

 

語り継がれる『福島堤防』

岩国市小瀬の通称店口(小瀬垰入口)のある岩場(通称「淵」)に跳ね返された土砂は、中津原に砂を押し上げ陸地を形成したと考えられ、そこで山裾を流れる川を堰止め、中州の周りに堤防を築きながら人々が山間から平地に降り平地へと住むようになりました。
こうした川の流れの条件の中で生活圏を確保するために、ここに住む人々の勇気と大変な苦労があったこと思われます。

山陽道国境としても古くから「渡し場」があったところで、はっきりした築堤年代は不詳ですが、「巻石」といわれる約100mにおよぶ城の石垣の如く強固な石組みを築いたのは、「福島正則」の時代に入ってからと、地元では語り継がれています。
市内に幾つかある福島堤防伝説の中で唯一年代が符合する堤防です。

大竹市史資料編第一巻の中に「元和十年(1624年)軍夫ニテ調、寛永・享保八年繕ひ有り…」と記されているように、在城18年の福島の時代(1601年~1619年)とされています。

後に、元禄13年(1700年)、巻石の上手に「小林の三角和久」が水中に無造作に大石を積み重ね洪水の水圧と巻石の重要な保護のため築かれ、今もそのままの状態で見ることができます。

 

種々産業に活路

小瀬川の流れの特長は、中流域まで緩やかな流れで舟の往来が容易にできたことから、沿岸部と山間部との中継地として、江戸時代に入り間もなく商業地として盛んになっていきました。

元禄年間にはすでに酒造りが行われていたとの記述があり、穀物の確保とともに、味噌、醤油などに加工し販路を確保するという活力が村を潤わせました。

また、和紙作りに適した小瀬川の水に支えられながら、村の多くが副業生産として手漉き和紙を手掛け「木野川半紙」は一つの銘柄としてその名を広く知られるようになりました。

こうして木野一丁目は生産流通の拠点として栄え、いくつもの「船着き場」を持ち、物流は上流へ、下流へと運ばれていきました。

最盛期の大正中期には、河口から巻尾の浜(現在の弥栄ダム堰堤の前飯ケ谷口)まで、一日40隻におよぶ舟が往来し、木野地区は商業の拠点として繁栄しました。

こうして二行の銀行・郵便局などの金融機関が進出、木野実業補習学校が設置されるほど注目されました。

 

陸上交通の発展

明治10年(1877年)には、大竹村・木野村間車道が完成、その後大正2年(1913年)には、大竹・山口県本郷間里道の改修工事が始まりますが、全線開通には長い時間がかかり大正12年(1923年)に開通しました。

種々生産・流通の繁栄により築かれた明治・大正・そして昭和初頭の町並みが、今も歴史をうかがわせる「町並み」は、貴重な建物文化財としてその雰囲気を残しています。

 

大竹町との合併

昭和14年(1939年)、町村合併の話が持ち上がりますが、実現には至りませんでしたが、その後昭和26年(1951年)4月、大竹町と木野村が合併しました。

その年の10月14日夜半、大型台風「ルース台風」が小瀬川流域を襲い、玖島川の氾濫に始まり各地で山津波が発生、木野地区は大きな被害を受けました。

合併後半年、大竹町民は全力を上げて救援活動に当たりました。
その中には「大竹町婦人会」や「広島県立大竹高等学校」の生徒全員がスコップを持ち駆けつけ、各家に分散し土砂の取り除きに当たりました。木野地区の皆さんは合併したことによる懸命な復旧活動に大変感謝し喜ばれました。

また、小瀬川の天然記念物に指定されていた【川真珠貝】が、一夜にして土石流の堆積により全滅した悪しき台風でもあり、その後種々調査・飼育を試みましたが、再び小瀬川に川真珠貝が帰ることはありませんでした。

 

木野地域の史跡・文化財