大正12年(1923年)7月17日、松ケ原上空は、雲がたれこめていました。
午前11時頃、飛行音が聞こえ始め、二度、三度、上空を旋回したようですが、姿は見えませんでした。
そして、突然、西の河平山の方向で音が聞こえなくなりました。
墜落したのではということで、午後になり、松ケ原青年団が中心となって、救出に向かい、墜落が確認されました。
乗員の浅田中尉は殉職、津村曹長は軽傷で、川を目指して下山していたところを、松ケ原村民に救助されました。
それから、浅田中尉の遺体を戸板に乗せて下山し、玖波から電話で軍への連絡を行いました。
夕刻になって軍の部隊が到着し、悲しみのうちに遺体を引き渡しました。
その後、浅田中尉と津村曹長の乗った飛行機は、福岡県太刀洗飛行場を飛び立ち、広島に向かう途中に霧のため方向を誤り、河平山山頂付近の岩壁に激突し、谷間に墜落したことがわかりました。
当時、飛行機は、有視界飛行であり、濃い雲界に紛れ込むと、位置の確認が困難でした。
浅田中尉は燃料切れを前に、不時着地を探していました。
「その時、一瞬、目の前に岩壁を発見、機首を引き起こしたが、間に合わなかった」と、後に、津村曹長は語っています。
松ケ原地区では、青年団・消防団を中心に、大破した飛行機の残骸の処理にあたりました。
殉職により浅田中尉は大尉に昇進し、出身地静岡の実家から松ケ原地区へ金1,000円(当時米1俵が10円)が送られ、区長が保管し、記念碑の建立や青年団活動などに活用されたと言われています。
また、飛行四大隊長陸軍歩兵中佐の倉茂三蔵により、当時の松ケ原小学校長であった山脇徳三郎に感謝状が贈られ、加えて積極的に救助活動を行った松ケ原青年団にも感謝状が贈られました。
翌年2月に墜落地点に記念碑が建立され、太平洋戦争終結まで、毎年、7月16日に青年団が山道の手入れを行い、翌日には、小学校の児童や地区民たちがお参りしていましたが、終戦後、そうしたお参りは途絶えました。
墜落後、70年を経過した平成5年に、松ケ原町民の再三のお参りと清掃により、この記念碑は蘇りました。
また、松ケ原町から西に向かい、通称「馬が峠」を登って約1kmの地点に、高さ約2m、最大幅約4mの岩石があります。
この岩肌に、松ヶ原の石工の上岡登一によって彫られた道しるべがあります。
道しるべには「向ッテ左上 ひこうき つゐらくち」とあり、この地点から右に向かい、稜線沿いに登ると、途中、西の谷向かいの山に、「国郡誌 松ヶ原村」に記載されている「天狗岩」を見ることができ、それを更に登ると頂上に着きます。そこから、少し北に下ると「浅田砲兵大尉殉職之碑」を見ることができます。
陸軍中将 岸本廉太郎書
所在地 | 大竹市松ヶ原町(廿日市市大野地籍・河平山) | ||
建立年 | 大正12年(1923年) | 石の種類 | 花崗岩 |
高さ | 170cm | 最大幅 | 152cm |
表記文字(表) | |||
表記文字(表) | 大正十二年七月十七日 飛行機墜落 三和村 栗谷村 友原村 玖波村 大野村 大正十三年二月建之 松ヶ原 石工 上岡登一 |