三倉岳

三倉岳は、栗谷町にある標高702mの大竹市を代表する山です。

三倉岳には、「朝日岳」、「中岳」、「夕陽岳」と呼ばれる三つの峰があり、それが名前の由来と考えられます。

県立自然公園として登山道やキャンプ場も整備されており、遠くからも登山者が訪れています。

 

三倉岳の伝説

その昔、三倉岳の裏側、佐伯町浅原への道を尋ねた盲目のお坊さんがいました。

はじめに道を聞かれた里の人は、詳しい案内をしませんでした。

次に、現在の扇岩のところで出会った木こりの老夫婦も、このお坊さんに親切に道を教えることなくすれ違いました。

そのため、急峻な岩場の多い三倉岳の山中で、目の見えないお坊さんは迷い苦しみ、何日か後に頂上近くの隠坊池で水死してしまいました。

そして、再びこのような苦しみがあってはならないことを里の人に末永く教えるため、大地震を起こしました。

この地震によって村は大きな被害を受け、村人はこの祟りを鎮めるために麓の宮久保神社に三倉大名神を祀ったと言われています。

三倉岳の岩峯の頂は、古来より神と人間の一時の出会いの場と言われ、この三つの峯は人々の心で美化され、一番高い峯は人々の寿命を司る神の山、中の岳は徳を、低い峯は福をという意味があると言われています。この神々の守りを得るため、人々はこの峯を登山を奉納するといいます。宮久保神社の秋の大祭には、ヤマイロ(山入ろの)荒行があるそうです。

また、このときの大地震で、三倉岳から大きな岩が落ちてきたといわれ、三倉原の扇岩や栗谷中学校の横の耕中石も、このときに落ちてきたと伝えられています。

 

源助くずれ

天文20年(1551年)9月1日、中国・九州7カ国の守護として力を奮った大内氏は、家臣の陶晴賢の謀反により事実上滅亡しました。

大内氏に臣従していた諸国の領主たちの中には、陶晴賢に反抗する者も現れ、石見(津和野)の吉見氏や安芸の毛利氏などが兵を挙げました。

毛利元就は、吉田の郡山城から3,000の兵を率いて南下し、廿日市の桜尾城まで兵を進めました。

これに対し、陶軍は、岩国の横山の永興寺に7,000の兵を集め、小方から玖波まで北上した際に「大野角山に敵の伏兵あり」との情報を受け、進路を西にとって玖波から峠を越えて津田を目指しましたが、原生林に阻まれて、行くことができませんでした。

そこで、陶晴賢は芥川弥三郎という者を呼び「津田に行く道を調べよ」と命令しました。

芥川弥三郎は、炭を焼いている煙を見て立ち寄り、三人の玖波の農夫に「津田の里町まで詳しく教えてくれれば、褒美を与えるぞ」と言いました。

三人の農夫は喜び、この辺りでは三倉岳が一番高いので三倉岳の中腹まで案内し、ここからは人馬も簡単に通れ、ひと山越えれば津田の里道に行けます」と眼下を指した。

すると、芥川弥三郎は「よく教えてくれた」と言うと、むごいことに案内した農夫のうちの二人の首を一瞬のうちにはねてしまいました。

残った農夫の一人は源助といいました。源助は、これは大変と思い三倉岳の右の峰「朝日岳」中腹から一気に岩場を飛び降りたが、崩れた岩石が後を追ってせまり、ついに命を絶たれました。

人々は源助たちをいたみ、現在も三倉岳の朝日岳の岩場を「源助くずれ」と呼んでいます。

その後、陶晴賢の軍勢は、明石峠を下り、野貝原から折敷畑山に布陣しましたが、道なき山道を越えたため、すでに疲れきっていました。

毛利軍は、毛利元就・毛利隆元を中央に、右に吉川元春、左に小早川隆を配置して、陶軍を待ちかまえました。

毛利軍は、山頂に布陣する陶軍に向かって罵詈雑言を浴びせ誘い出しました。誘い出された陶軍を一気に攻めたてられ、陶軍は総崩れとなり、ついに退却しました。

そして、翌年の弘治元年(1555年)10月1日、毛利元就は厳島の戦いにて陶晴賢を討ち取り、毛利氏繁栄の基盤を確かなものにしました。

 

愛猫「たま」を撃つ

三倉岳の麓に一人の狩人が住んでいました。狩人は、毎日近くの山々を歩いて鳥や獣を撃ったり、家のまわりの段々畑に野菜を作って暮らしをたてていました。

彼は一匹の猫を飼っていました。その名は「たま」といい、何年もかわいがって飼っていたので、大変よくなついていました。

ある日のこと、狩人は、いつものように狩りに出かけて方々の山々を歩きましたが、その日はどうしたことか一向に獲物が見つかりません。それに足も疲れてへとへとになって、三倉岳の西の茶臼岩の近くまで帰りました。

そのとき、ふと前の岩の方を見ると、不思議なことに美人が糸を紡いでいる姿が目にうつりました。

狩人が驚いてその岩に近づくと、美人の姿はいつの間にか見えなくなり、離れるとまた現れます。

これはきっと狐か狸のいたずらに違いないと思い、姿の見えた方向をめがけて一発「ずどん」と鉄砲を撃ちました。

その瞬間、狩人は、いつものような手ごたえを感じたので、岩に近づいて調べてみましたが、その付近には何も見当たりません。狩人は今日はやっぱりだめだなと思って家に帰りました。

翌日になり、昨日のことが気にかかってその場に行ってみると、血こんが点々と落ちているのが目にとまりました。狩人は急に胸騒ぎを覚えましたが、つとめて気分を静め、血こんをたどっていくと、それは狩人の家の床下に続いていました。

そこで床下に入ってよく見ると、そこには愛猫の「たま」が血にまみれて倒れていました。狩人はそれを見て気が動転しました。しかし、よく考えてみると、昨日、狩人がさらに獲物を求めて深い山中にでも入ると、終日の疲れできっと何かの災難に遭ったかもしれない。「たま」はそのことを主人に知らせるため、身代わりになって当日の猟を思いとどまらせてくれたのだと思いました。

狩人は「たま」を憐れみ、墓をたてて手厚く葬ると、それからは狩りをやめて静かな余生を送ったということです。