亀居城

中世の芸州・周防一帯沿岸部は、大内義隆、陶晴賢の支配下にあり、廿日市の大野角山城・櫻尾城・草津城は、戦国大名の国取り合戦の様子をうかがうことができます。

小方の桜山(現在の亀居城跡)も砦があったとも言われていますが、真相はわかりません。

慶長5年(1600年)、近世への突破口となった「関が原の合戦」で、毛利氏は西軍の盟主にまつりあげられましたが、戦いに敗れ、毛利氏最大の拠点であった広島城を築城僅か18年で追われました。山口への移封を願いながらも、ここは情報が行き届くということで徳川家康は聞き入れず、情報の届きにくい防長2州の拠点を萩の寒村に移封された。

毛利氏に替わって広島城に入ったのは、豊臣秀吉恩顧の家臣福島正則です。福島正則は関が原の合戦で東軍に与して勝利に貢献し、慶長6年(1601年)に論功行賞で尾州清洲城18万石から、芸備二州(現在の広島県)の49.8万石を拝領されました。そして、長州との国境小方を最重点に、毛利氏に対する守りとして、小方城(通称亀居城)の築城に乗り出しました。

時に慶長8年(1603年)、甥の福島伯耆守正宣に1万石を与え築城を開始。慶長13年(1608年)に城は完成しました。しかし、城主福島伯耆守正宣は、前年慶長12年に死亡、城の雄姿を見ることはありませんでした。

小方城は、亀の形に似ていることから、いつの日か「亀居城」と呼ばれるようになりました。亀居城には11の郭(「本丸」・「二の丸」・「三の丸」・「有の丸」・「なしの丸」・「詰めの丸」・「松の丸」・「名古屋丸」・「捨ての丸」・有りの丸の南に「鐘の丸」・亀の頭に当たる海に突き出ているのが「妙見丸」)があったことが確認されていますが、これだけの郭が確認できる城跡は近郊では見られません。

標高88メートルの山で西側は山陽道(西国街道)苦の坂峠、北は懸崖の山が人を寄せ付けず、石垣で囲み上げた城壁は、まさに難攻不落の城で、毛利家への防備の要の城として築いた平山城です。

しかし、築城から3年後の慶長16年(1611年)、亀居城は破却されました。その理由については、色々な憶測やもっともらしい説がありますが、はっきりとした理由はわかっていません。

そして、元和2年(1616年)に武家諸法度が制定され、城の無断修復が禁止されました。福島正則は洪水後に城の石垣を修復しましたが、これが問題となり、元和5年(1619年)に信州川中島4万5千石に減封されました。豊臣恩顧の大名であった福島正則は、徳川幕府にとって都合の悪い存在だったのだと思われます。

その後も、豊臣恩顧の武将の多くが追われましたが、上田重安(宗箇)は、阿波(徳島県)の蜂須賀家、後に紀伊(和歌山県)の浅野家に迎え入れられ、家老の待遇で小方に1万石を与えられ、茶家として江戸時代を生き抜きました。

はっきりしませんが、小方の消防屯所があった公園の辺りに、上田氏の小方知行所(給地の政務を行うところ)が幕末までおかれたと言われています。

ただし、残念なことに上田重安自身は、一度も小方に足を運んだことがないと伝えられています。しかし、城下に上田家老屋敷を持ち、名を馳せた茶人として浅野家を支え、「縮景園」を造園、水回りの役どころとして、浅原の「岩船の水」に振る舞いの茶室を作るなど、紀伊から移ってきた城主浅野長晟を支え、多いに浅野家の基盤を作ったことは想像できます。そのため、上田氏は、代々浅野家の家老として明治維新まで持ちこたえました。

亀居城は破却された後、永い眠りに入り、その跡地は「城山」と村人に親しく呼ばれていました。そして、天守台や城の石垣の跡を発見できたのは、破却から370年後、昭和50年代でした。

当時、亀居城の頂上付近を史跡公園とすることなり、工事が開始されました。そして、その工事の最中、昭和52年(1977年)11月に天守閣西側の石垣が現れ、広島県の指導により、大規模な文化財調査が実施されました。

調査の結果、多くの石垣が壊されていたものの、主要な部分の石垣は残されていました,また、城郭や石垣の刻印なども確認でき、亀居城跡の文化財としての価値は高いものがあり、大竹市の指定文化財「史跡」に指定されました。

現在、亀居城後は、緑豊かな歴史溢れる都市公園「亀居公園」として整備され、市民に親しまれています。

 

なぜ亀居城と呼ばれるの?

亀居城は本来「小方城」と呼ばれていたと考えられますが,山の形が海に向かって亀の頭、左が甲羅のような形に見えることから、いつの頃か亀居城と呼ばれるようになりました。

 

福島正則らしいお笑いエピソート

亀居城は、瀬戸内海の島々からも石が運ばれた強固な城であったといわれます。その石を調べてみると牡蠣の殻が付いたものが組み込まれていることがわかります。

これは福島正則が「石一個に対し米一俵差出候」と、お触れを出したところ石をどっさり積んだ船が小方の沖に現われ、しばらくコメを振る舞いましたが、正則ここぞとばかり、「もう石は余るほどになったので持ち帰ってくれ」と言いました。

約束が違うと腹を立てた船頭は、小方の入江に、石を投げ捨てて帰りました。

すると、福島正則は「さぁ、石を陸揚げして城の石垣を築け」と命じ、捨てられた石を拾わせたという話が伝えられています。豪快な武将、福島正則ならではのエピソードです。

 

亀居城築城犠牲者慰霊碑

いつの日か、旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないのだ。この大事な犠牲者を弔うものはいないのか」と言い残して立ち去ったといいます。

昭和60年代に入り、地元の人たちの協力で慰霊碑が建てられ、手厚く祀られています。

 

遠土墓地のお地蔵さん

亀居城跡の南の「妙見丸」と北の「詰の丸」の谷間に、古くから共同墓地がある。その入り口に「お地蔵さん」は建立されています。

市域で年号の入った石仏としては最も古く、明和8年(1771年)に建立されています。

共同墓地の入り口には、六地蔵が建立されている所が多いですが、ここは地蔵さんです。

また、この年は、全国的にも厳しい「明和の大飢饉」が起こり、翌年も続き、明和9年を「明和九(めいわく)」と言って、年半ばで「安永」に年号が変わったほどでした。

 

亀居城跡の刻印

亀居城跡は、郭がその原形をとどめていることと、刻印が随所に見られるため、歴史的にも貴重な城址となっています。

大竹市歴史研究会が、平成2年9~10月に調査を実施し、刻印をすべて拓本に取り記録するなどして、総数264個の中で、42種類の刻印を確認しました。この数字は、広島城の刻印をしのぐもので,21個が広島城の刻印と一致しました。

毛利輝元が吉田から太田川河口に出て、広島城築城の鍬初めを行ったのが、天正17年(1589年)2月、そして輝元が広島城に入城したのが、天正19年1月という突貫工事であったと言われています。しかし、すべてが完成したのは、慶長4年(1599年)でした。

築城には、五箇村からデルタを眺め、箱島(白島)の南の大きなデルタに築城することを決めたと言われています。

「広島」という地名については、デルタの中で一番大きな広い島に築城したので、「広島城」と名づけられたという説と、毛利の祖先大江広元以来、毛利家に伝わる「広」の字と、検分に当たった案内役の家臣福島元長の「島」を合成したという説があります。

このように中世の城に刻印があるのは珍しく、近世江戸時代を迎えて、支城の亀居城に広島城以来、十年後にして21組みの同じ提供者がいたということになり、毛利氏の影響が強かったこの地に、いやおうなく福島正則という大名の指示に従わざるを得なかった証拠かもしれません。

亀居城の刻印・郭は、大竹市の文化財であり、大切に保存・継承していく必要があります。

 

築城時の石工たちの「鏨跡(たがねあと)」

亀居城跡の石垣には、石を割った「鏨跡」の石が多く使われています。

鏨跡の幅は、6cm~10cmのものが多く、年代を知る上で重要なものとなります。鉄の質や石の特性を読む技術などの発達で、現在に近くなるに従って幅が細くなり、年代を想定することができるといわれています。

 

 

 

 

詩の坂道

日本の歌謡曲に数々の名曲を世に出し、戦後の混乱期に国民に勇気と希望を与えてくれた作詞家の石本美由起は、大竹市立戸に生まれました。

昭和19年(1944年)大竹市には、軍事基地として「大竹海兵団」そして日本で唯一の「大竹潜水学校」がありました。石本美由起は19歳のときに大竹海兵団に勤めており、その頃から、とても本が好きで読みふけていたといいます。かくれんぼをしても誰にも見つからないところで一人夜がふけるまで本を読んでいたそうです。

そして、昭和21年(1946年)には高橋菊太郎主宰の「歌謡同人誌」に入会し、作詞家を目指し、その2年後の昭和23年(1948年)には「長崎のザボン売り」「憧れのハワイ航路」を世に出し、日本コロムビアの専属となります。

それからも作詞家として大成し、美空ひばり、都はるみ、五木ひろし、細川たかしなど、多くの名だたる歌手を世に送り出しました。

この「詩の坂道」は、昭和62年(1987年)作詞家生活40周年を記念して、亀居城跡の公園に関係者によって建立され、石本美由起が作詞した代表的な詩が碑に記されています。

最初は、自宅の坂道に育っていた柿ノ木から思いを込めて作った「柿の木坂の家」、西国街道に思いを馳せて作詞したといわれる「木野川の渡し」、細川たかしの「矢切の渡し」、美空ひばりの大ヒット作「悲しい酒」、五木ひろしの「長良川の艶歌」、島倉千代子が歌った「ああ征長隊」は、昭和30年代初頭の歌謡番組のベスト10内に入った詩でした。

そして「憧れのハワイ航路」、最後に大竹市に贈られた「亀居城春秋」が並んでいます。