地鎮社

大竹三大荒神の一つといわれるこの「地鎮社」は、南栄一丁目の山陽本線の線路添いに祀られています。

この地鎮社は、小島新開の干拓・潮留めの完成を見て、天保4年(1833年)に築調され、太平洋戦争終結間際の昭和19年(1944年)に大竹海兵団の用地拡張のため、南栄二丁目からこの地に遷されました。

今川(大竹川)の本流に境界杭を立てて、安芸・周防の国境が確定したのは、享和元年(1801年)のことでした。

この棒杭からそれぞれ60間(約109m)引いて大堤防を築き、それを契機に境界論争はなくなり、沖に向かって急速に新しい新開地が築かれていきました。

この頃、大竹川では河口に向かって新堤防を築き、「沖新開」を完成させ、大竹川とこの新開地が出合ったところを、「棒鼻の波止」といって船の繋留地としました。

さらに、天保3年(1832年)に、小島新開が浅野藩直轄の蔵入れ地として築かれ、小島新開村として独立しました。そして天保4年(1833年)に、「地鎮社」が棒鼻に建立されました。

小島新開は、藩主直轄の蔵入地であったため、呉・大柿・倉橋など他地域から多くの人々が入植してきました。そのため、大竹村からは「地元無視」との苦情が出て、騒動も起きる状況でした。
こうした民心を融和し、友愛心を育むためにも、地鎮社を創建することには意味があったと考えられます。

 

所在地   大竹市南栄一丁目
建立年   天保4年(1833年)