中世(平安時代~室町時代)

平安時代、平氏が台頭してくると、厳島神社が平氏の信仰を集め、急速に発展しました。

この頃になると、従来の律令制度は崩壊し、土地の私有が認められるようになっていましたが、厳島神社は平氏の実力を背景として、多くの土地の寄進を受けていました。

また、佐伯郡は、東西に佐東郡と佐西郡に分かれましたが、厳島神社は佐西郡を中心に安芸国の広範囲において社領を所有していました。そのため、大竹市域も、鎌倉時代には厳島神社の社領に組み入れられていたと考えられます。

また、大竹市域における具体的な村を想像させる地名が初めて文献に登場するのは、室町時代の今川了俊(世貞)の「道ゆきぶり」です。

これは室町幕府の有力家人であった今川了俊が、鎮西探題として九州制圧に向かった際のありさまを書きとどめた紀行文です。

これによれば、安芸国を陸路で西に向かった今川了俊は、応安4年(1371年)9月19日に佐西浦(現在の廿日市市)に着き、20日には厳島神社に参拝し、21日に出発して「おほの」(大野)を経て、周防国多田(山口県岩国市)に到着したことがわかります。そのときの様子については「おほのうらを過ぎて、それよりこなたは、みな山路なり、津葉、黒河、こえ松、やを松などいふも、うみかけたるみ山路なり、大谷とて岸たかき山河、ながれ出で見ゆ、これより周防のさかひと申、今夜は多田といふ山ざとにとどまりて、朝にまた、山路になりぬ、これなん岩国山なりけり・・・」と記されており、さらに厳島より南海上を展望した記録には「東にさし出たる山の崎と、此島のあはひは、二十余町ばかりへだてたる中に、小じまのさとさとしげにて見ゆるひとつ侍、これなんこぐろ島というなるべし、此島のあたりをば、あたととぞいふなる、島守にいざ言問ん誰為に何のあたとと名にし負けむ」」とあります。

ここでいう「津葉」は「玖波」、「黒河」は「黒川」、「大谷」は「大竹」、「あたと」は「阿多田」だと想像できますが、「こえ松」、「やを松」はどこかわかりません。

また、康応元年(1389年)の「鹿苑院殿厳島詣記」には「おかだとかや言は、おほたき河とて、安芸と周防のさかひの川の末の海つらを過て・・・」とあり、「おかだ」は「小方」、「おほたき川」は「大滝川(大竹川)」のことだと想像できます。

このことから、すでにこの頃には、玖波、黒川、小方、大竹の各地に村が形成されていたと考えることができます。

この頃の市域の村は、厳島神社の社領として厳島神主家の支配に属していたと考えられますが、実際には村の有力な名主(一定規模の土地を所有して農民に小作させていた人たち)が武士化し、厳島神主家の地頭として村を直接支配したと考えられます。

市域では、当時地頭所有地の一部であったと思われる「土井(土居)」という地名、地頭が使用したと思われる「山鼻城」が油見地区に残されており、黒川地区にも同様に地頭所有地の一部であったと思われる「堀之内」という地名が残されており、この地域を地頭が支配していたことが想像できます。

また、その他中小名主層も村人の指導者的な立場として存在していたと考えられます。山間部の村々が成立したのも、室町時代頃だと考えられており、谷和・小栗林、大栗林などの各村は、各地の地侍的な小名主が中心となって開拓し、成立していったと思われます。