現代(幕末・明治前期)

 長州征討と復興

江戸時代を通じて、安芸国は浅野藩による統治が続きましたが、幕末になると、大竹市域は長州藩との境界にあることから、大きな影響を受けることになりました。

慶応2年(1866年)の芸州口の戦いでは、市域は壊滅的な状況になり、  大きな被害がありました。

明治維新により、新政府が樹立されましたが、大竹市域では長州征討によって大きな被害を受けた大竹市域では、まだ復興に対応していました。

しかし、農民自らの力で復興することは難しく、藩や給主から提供された米や銀が復興の大きな力になりました。

また、家屋の復旧、農業の奨励、和紙産業の立て直しが行われる一方で、救済事業の一環として新開開発も進められ、小方の烏帽子新開や玖波の明治新開が完成しました。

 

廃藩置県

明治維新後も当面は藩は維持されましたが、明治2年(1872年)に版籍奉還が行われ、広島藩でも藩主が藩知事に変わり、家老職が廃止されるなど、大規模な藩政改革が断行されました。

そして、明治4年(1874年)に廃藩置県があり、広島藩は広島県となり、藩知事も廃止されました。また、これまでの割庄屋・庄屋・与頭などの諸役人も廃止され、新たに行政官吏として戸長・戸長副・少長といった役員が任命されました。

佐伯郡では、戸長4人、戸長副13人がおかれ、各村に少長・少長副が任命されましたが、多くはこれまで割庄屋などの役職を担っていた者が選ばれ、大竹市域では、小方村の和田吉左衛門が戸長に、大竹村の望戸栄左衛門と木野村の稲田嘉一郎が戸長副に選ばれました。

それから、郡も改められ、広島県は17の大区に区分され、佐伯郡は第4大区となり、市域には次のような小区が置かれ、区長の下に戸長1人、副戸長10人が置かれるようになりました。

五小区(地御前村・大野村・玖波村・松ケ原村・谷和村)
六小区(小方村・黒川村・木野村・大竹村・小島新開村・油見村)
七小区(峠村・渡瀬村・奥谷尻村・後原村・小栗林村・大栗林村)

 

また、明治5年(1875年)には、住民の自治組織として、「大組」・「小組」が作られ、行政の末端組織として大きな役割を果たしました。

小組はほぼ10戸をもって組織され、大組はいくつかの小組をもって組織されました。そして住民の投票によって選ばれた「総代」は、大組を統制するほか、戸長などの官吏の不正を監視する任務もありました。

そのため、大組総代は、しだいに実力を持つようになり、戸長の職務に干渉するようにまでなったため、明治9年(1879年)に廃止され、代わりに町村・小区に「惣代人」が置かれるようになりました。町村惣代人は、町村内で不動産を所有する者の選挙によって選ばれ、小区惣代人は町村惣代人の互選によって任命され、その任務は、管内の民情把握を主としており、住民の利害得失に関する事件について、住民の立場から関与できるものとされていました。

また、この頃、徴兵制・学校制・租税制度も改められ、住民の生活も大きく変わることになりました。