ソウゲ殿の碑

山本頼晴碑かつて阿多田島の長浜(元海水浴場)の丘の上に、樹齢数百年の「ソウゲ松」がそびえていました。今ではその松も枯れ果てて、そばに「ソウゲ殿の碑」だけが寂しくたたずんでいます。

戦国時代、陶晴賢に仕えていた山本佐兵衛義定は、毛利元就との厳島の合戦で戦死し、その子の山本小十郎頼晴は、阿多田島に住みつき宗家的な存在となりました。
いかなる理由かは定かではありませんが、天正6年(1578年)9月、阿多田島に村上掃部(毛利水軍の村上武吉か?)が攻め込みました。
手兵30人ばかりの頼晴は、衆寡敵せず、遂に自刃して果てました。
頼晴を失った阿多田島では、一時期は人々の信頼関係、道義もなくなってしまったといわれます。

住民は、自刃の地に遺体を埋め、その脇に植えた松を「ソウゲ松」と呼んできました。
それから長浜には、馬に乗った首のない武者の幽霊が出るという噂が広がり、人々は恵比寿社を祭り、ソウゲの魂を鎮めました。

頼晴は自刃の際に、息子の頼時を海土路(みどろ)(現在の岩国市)に逃がしていました。そして、明治維新の頃に、子孫によりソウゲ松のそばに慰霊の石碑が建てられ、「ソウゲ殿の碑」と呼んでいました。