現在の本町一丁目(大竹会館のあるあたり)は、かつて大河原山から岬のように出っ張った権現山がありました。
この山には広島藩の家老 上田安虎(1742年~1802年)が、芸防の国境の守護神として祭った武昌大権現の社がありましたが、皮肉にも、慶応2年(1866年)の長州戦争の際には、この山に長州軍の大砲が据えられたといいます。
権現山の地下には、江戸時代から油見新開の田へ水を送るための手堀穴(トンネル)があったので、鼻繰山(はなぐりやま)とも呼ばれ、傍を流れる川を鼻繰川といいました。
この用水トンネルは、座ってつるはしが使えるくらいの大きさで、夏の通水時期には子どもたちが面白がって走り回り、また、かっこうの洗濯場となっていたそうです。
明治12年(1879年)、大竹に国道(旧国道)が通った際、鼻繰川に立派な石橋が架けられ、権現山からちなんで権現橋と名付けられました。
大正6年(1917年)、小方に大倉組山陽製鉄所が誘致された際、埋立用の土砂として権現山の一部が崩され、トロッコで運ばれました。
さらに昭和15年(1940年)、大竹海兵団の用地造成用に残りの権現山も削り取られ、跡形もなくなりました。その際、武昌大権現は、大滝神社に合祀されました。
その後、交通の発達により、権現橋付近の道路は六叉路となり、ついに鼻繰川も暗渠とされ、権現橋は姿を消しました。
しかし、権現橋は今でも地名として残されており、橋の親柱の一基が近くの民家に大切に保管・設置されています。