初代青龍軒盛俊は、江戸の刀匠 長運斉綱俊から刀剣技術の免状を取得した後、岩国藩のお抱え刀匠となりました。
二代目盛俊のところへ、松ケ原村の越水藤一氏が入門したのは、明治20年(1887年)でした。
藤一氏は、ここで9年間、刃物の鍛錬術を体得し、免許を受けて松ケ原に帰郷して、刃物鍛冶を開きました。
明治維新後の廃刀令で、すでに刀鍛冶の需要は減り、生計を立てることが難しい時代となっていましたが、彼の作った「盛一」の銘が入った包丁は、松ケ原包丁として近郷で賞賛・愛用されていました。
藤一氏は、大正5年(1916年)に、三代目盛俊の名跡を継ぎ、文献・道具なども譲り受けました。昭和9年(1934年)、帝展に刀の部が設けられると、三代目盛俊の刀剣が入選し、翌年には新作日本刀大共進会で最優秀の総理大臣賞を受けるなど、三代目盛俊の名声は一挙に高まりました。
この刀造りの伝統技術は、現在、三代目盛俊の孫である越水龍雄氏によって受け継がれ、「広島県伝統工芸品」にも指定されています。