小瀬川の川舟による物資の運搬は、江戸時代から盛んなようでした。
しかし、前飯谷の巻尾付近から上流は、巨岩が連なる急流で、川床はでこぼこで舟の航行は無理でした。
明治になって山口県は、巻尾から岸根まで約4kmの航路の開発を計画し、明治7年(1874年)に、長谷川が合流する場所を上流側の起点として、そこに川港を開きました。
港は川沿いのほぼ1300㎡の州を取り込んで、高さ約4m、延長160mの堤防を築き、その内側を埋め立てて広場を造成し、事務所や作業員の住宅を建て、物資集積地として「弥栄新地」と名付けました。
川の通船路が整備されるとともに、奥地からの連絡道も開通して、多くの物資が馬によって運ばれて弥栄新地は繁栄しました。
その後、名勝「弥栄峡」も世に知られるようになり、弥栄の名は広く定着しました。
弥栄新地が造成されてから約100年後、くしくも巻尾に弥栄ダムが建設されることになりました。ダム湖の名称が募集され、1000点近い応募の中から断然多かった「弥栄湖」に決定しました。
こうして弥栄新地は弥栄湖の下に姿を隠し、地域発展の夢を託して安らかに眠っています。