黒川三丁目地区の住居表示が実施される以前は、「小方町中浜」、「大字黒川字中浜」となっていました。
当時は、中浜と書いて「なかんば」と独特の呼び方をしていました。現在でも「なかんば」と呼んでいる人もいますが、新しい家が建ち始め人々が交流する中で、いつの間にか「なかはま」になってきました。
江戸時代、この地域は、黒川村小名「中濱」といい、大膳川の北側向原の北から玖波村の中浜に接し、西は西国街道の東側から浜辺一帯で、小高い山と浜からなる地形でした。
独立した小高い山は「中浜山」と呼ばれ、給主上田氏の「御建(おたて)山」になっていました。
文政2年(1819)の国郡誌には
御給主様御建山
中濱山 壹ヶ所 堅 百貮拾間
横 四拾間
但 小松 少々御座候
とあります。
中浜山は、木が伐りつくされ山が荒れていたので、上田氏の管理とする御建山になり、村人は自由に入ることができませんでした。また、浜は文化年間(1804年~1818年)頃に新開となりました。
黒川村絵図では、中濱新開畠とあります。
面積に比べて石高が少なかったようですが、その大部分が砂地で作物ができなかったのだと思われます。
長州戦争では長州の兵が中浜に陣を構えました。
長州戦争で被災した黒川・玖波両村の農民救済事業として、慶応3年(1867年)に中浜沖の明治新開の築調に着手し、明治元年(1868年)に完成します。
その築造費用は、農民が6年の年賦で藩に返還されましたが、年賦のすんだ明治7年(1874年)、台風により新開のすべてが破壊され流れ去りました。その後も数度にわたり、決壊と復旧が繰り返された悲運の新開となりました。
明治13年(1880年)には、広島~大竹間新道が中浜地先を通って開通し、明治30年(年)には山陽鉄道が完成して中浜は海と隔てられました。
中浜新開畠は水利が施され、水田へと変わりました。一方、中浜山は御建山で官有地となっていましたが、村民に払い下げられて、段々畑に開墾されました。
昭和に入り、明治新開が何回目かの築調工事が進められ、昭和8年(1932年)には国道に沿って、幅約50mの土地が埋め立てられました(小方村3,400坪、玖波町2,400坪)。この埋め立ての土砂は、御建山(現三菱レイヨン中浜寮が建っている所)を切り崩した土をトロッコで鉄橋の下を通って運び出されました。
戦後昭和30年代に入り、宅地の需要が高まり、中浜山山頂廻りの等高線が40mと実地造成地の立地条件に恵まれた中浜地区に、昭和35年(1960年)三菱レイヨン株式会社の社宅のアパート建設が始まります。
続いてその背後地一帯の土地区画整理が行なわれ、これに追随して個人の宅地造成も次々と行なわれました。わずかの間に地形は一変し、住宅団地へと変貌しました。