明治16年(1883年)の小栗林村と大野村の山論は、狼原山、エゴノ谷山、渡樋ケ谷山、下原中嶋山、越ケ谷山、龍ケ滝山にある私有林の所属と札ケ原山、猪ノウツ山の境界を巡る争いでした。
このうち狼原山など6つの山の私有林の所属の問題は、大野村は「元々この林地は大野地籍にあり、このことは享保10年(1725年)の山改め帳の記載事実によっても明白である」と主張し、小栗林村では「寛永18年(1641年)に後原山が小栗林村から分立した際もこの林地の地籍は小栗林村に残っており、当然小栗林村のものである」と反論していました。
また、札ケ原山、猪ノウツ山の境界については、小栗林村は「すでに文政7年(1824年)に確定している」と主張し、大野村は「境界を確定した事実はなく、これまでの小栗村の入会地を指定しただけである」と反論していました。
この問題は、小栗村の提訴によって広島始審裁判所に持ち込まれました。
裁判所は、「狼原山など6つの山の私有林の所属の問題は、小栗村のいうように後原村の帳簿に小栗村分とあるが、享保10年(1725年)の小栗村の山改め帳にはなく、これまで山銀の取り立ても行われていない。一方、同年の大野村の山改め帳には、嵐谷山と広原山の内訳にこれらの私有林が記載されている。そのため、これらが小栗林村の地籍にあるとは言い難い。また、札ケ原山、猪ノウツ山の境界についても、小栗林村のいう確定の証は単に草刈と伐木の場所を指定したにすぎず、山の境界を定めたものではない」として、大野村の主張を全面的に認め、小栗村は敗訴しました。
小栗村は翌明治17年(1884年)に広島控訴裁判所に提訴しましたが、こちらも前回と同じ理由で敗訴しました。