与三開きの争い

小瀬川(木野川)が安芸と周防の国境に定められたのは、天平6年(735年)であったと「続日本紀巻十一」に記述があります。
その後、小瀬川流域は、中世には大内氏の支配していました。安芸の国は、厳島神社の神主家の支配するところでしたが、大内氏の被官的立場にあったため、国境は争われることはありませんでした。
そのような時代に小瀬川は、自然の流れに沿って奥地から砂を運び、途方もない年月を経て堆積した土砂によって、各地に中州や陸地を形成してきました。
上流から気をつけて見てみると、蛇のように曲がりくねっているのは、巨大な一枚の岩場が大きな役割を果たしており、自然の力によって現在のような川が形成されてきたことがわかります。
そして、小瀬川の下流域に達すると、両国橋の上流約100mにある山口県側の岩場に当たった流れが、中津原を構成し,小瀬峠のところの岩場が下中津原(木野一丁目)を、そして元町四丁目と木野一丁目の境にある岩場が、関が浜川と合流して跳ね返り、元町四~三丁目あたりを淵にしたことから、中世の早い時期に容易に陸地を作ることができたと考えられます。

今も存在する、元町四丁目の山口県側にある「立岩」、元町三丁目の前にある「夫婦岩」の二つの岩場によって、元町二丁目から白石方面が陸地化されたと考えられます。こうして、大和橋付近から本通りを通って権現橋までは、中世の大内氏・毛利氏の時代に新開化したと言われています。
現在の大和橋から沖合は、本流「鼻操川」が、「権現橋」のあたりを通り、現在の「鼻操南蛮樋」のある大樋筋を抜けて海に出ていました。
そのため青木新開辺りは、洪水のたびに川筋が変わり、人の手ではどうすることもできませんでした。
しかし、瀬田(勢田)の八幡様の下の大岩に当たった流れが幸いして、和木村側は、完全に淵となり、現在の和木町と同じ埋め立てを1650年代にはほぼ完成していました。
そこで、いち早く人の住める町づくりに着手した和木村と、広大な干潟を見つめながら様々な苦労を重ねていた大竹村は、江戸時代に入り、幕藩体制の中で、安芸・周防の国境争いとなって激しく対立してしまいました。

中世(1600年頃)までは、大竹村と和木村の国境争いはほとんどありませんでした。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより、安芸・備後の国は、福島正則が領地となり、かつての領主であった毛利輝元は、周防・長州に移封されました。
このことが、これまで国境を意識しないで生活していた大竹・和木の村人の間に、国境争いが生まれた原因となりました。
そして、早くも慶長11年(1606年)に、大竹村・関ケ浜村間で、磯における貝取り論争が起こり、しだいに、毛保(中州)・海苔・流木などの奪い合いにまで広がって、激しい境界の争いに発展しました。
特に和木の村人が新田開発に乗り出した「与三開き」論争では、長年に渡る対立の火種となり、数度にわたり乱闘騒ぎが起こりました。

与三開きとは、中世末期の天正年間(1573年~1591年)、和木村の「与三」とその弟「新七」が、大竹村の星屋三郎左衛門に奉公していたときに開作した土地のことで、大竹市史によると、大竹村庄屋の許しを受け、毎年年貢を納め耕作していたとあります。
関ケ原の戦いの後、岩国藩は「与三開き」の検地を行い、正式に岩国領としました。この地はその後さらに広げられ、元禄年間(1688年~1704年)には4町(約4ha)、寛政年間(1789年~1801年)には6町(6ha)になっており、大竹村の人たちは、この与三野地を国境にされてはたまったものではないと、抵抗の構えに出ました。小競り合いは早くから繰り返されていましたが、明暦元年(1655年)に、和木村がこの地に再度の普請をはじめたことで、大竹村はこれを阻止するため、村人が大勢で押しかける騒ぎとなり、大乱闘になってしまいました。この乱闘で、大竹村の人たちは打ち負かされ、5人の死者、37人の負傷者を出しました。一方、和木村も応援に来た瀬田村の庄屋、小瀬村の庄屋が切りつけられるなど、多くの負傷者を出しました。
その後の記録にも、貞享2年(1685年)には、大竹村の牛が三匹、与三野地に入り込み、それを和木村の者が打ち叩いたので、居合わせてた大竹村の人たちがそれを咎めたという些細なことがきっかけとなって、大乱闘に発展しています。また、宝永2年(1705年)、宝暦2年(1752年)にも乱闘は続き、その際、和木の坂戸源右衛門、野坂新六の二人が亡くなり、児玉次郎兵衛が深手を負い、後に死亡し、和木町の養専寺境内にお墓があります。
このことをきっかけとして、安芸・周防の両藩は重い腰を上げ、国境確定の話し合いの場を持つようになりました。
すでに和木村の新開が完成していたという既成事実があったため、安芸側は、波止場とするとの理由付けから、寛永の石垣を二重に作り、水の流れを変える策に出ました。
川の流れを変えるために広島藩から度々技術者を出向かせ、指導しながら土木工事を行いました。これが「宝永の石垣」で、このために鼻操川の流れが弱まり砂が盛り、流れが江戸期の古絵図に見える「今川」(大竹川)に向かうようになり、現在の大竹の海岸線を決定づけました。
その後も安芸・周防は国境の見回りを強化していましたが、寛政3年(1791年)には大竹村の100人が集まり、岩国領では鉄砲隊が出動する騒ぎとなり、広島藩の境目付け役が、岩国に向かい談判することになりました。

そんなことがありながらも、享和元年(1801年)に安芸・周防両藩の和議が成立が成立し、今川の中央に杭が打たれました。問題の「与三開き」は、大竹側を少し引き、和木側を突き出すことになりました。
現在も、小瀬川河口域にその和議の姿をはっきり見ることができ、和木側には三秀神社が
当時の与三野地を見つめる形で建立され、大竹側には青木堤防の西の先端に、青木神社が建立されました。