明治新開

玖波・恵川河口と黒川・大膳川河口との間、中浜沖干潟を干拓して開かれた新開です。
この新開は、文久2年(1862年)に玖波村が、頭庄屋和田吉左衛門へ「玖波村難渋取直しのため新開築調を願い出るの書付」を提出したことから始まります。

願いの内容は、「当村かつては奥筋から諸産品が集まって、大坂・四国・九州へと出向く商船多く繁盛していたが、周防新港が開港、商売相衰え、加えて天保14年(1843年)の大火で町内過半焼失し、その困窮は極に達し…」とあり、新開実現を強く要望しています。

頭庄屋は、慶応2年(1866年)に郡役所に「中浜沖合に新開築調を願い出る書付」を提出しましたが、第一次・第二次長州戦争の対応に追われたため、戦争が終った慶応3年(1867年)5月に、郡役所は玖波・黒川両村の戦禍に苦しむ農民の救済事業として新開事業を始めることとしました。その費用も「郡府才覚銀」を郡から借りることができ、6月に入って普請頭取に和田吉左衛門が命ぜられて、工事が開始しました。

明治元年(1868年)10月には、潮留めが行なわれ、12月には工事に使っていた大鋤(すき)を借りて地を起し、翌明治2年(1869年)から一部耕作が始まりました。
面積は約20町歩、費用は銀1,473貫684匁(一貫は約米一石に相当)で、6年の年賦によって返済されることになりました。

村人は、麦粥をすすり、鍬ともっこを使って、わずか一年半で恵川を付け替え、長さ約1,300mの堤防を築きました。村人がいかに耕地を望んでいたか、思いが伝わってきます。
この新開は、明治元年にできたので明治新開と呼ぶことになりました。

年賦返済を終えた明治7年(1874年)、明治新開は暴風雨のため堤防が決壊してまたも海と化しました。
直ちに両村の有力者によって復旧が図られましたが、貧しい村財政ではどうすることもできず、やっと明治14年(1881年)に再興の目途がつき、明治17年(1884年)に主要部分の工事が終了しました。
その後、一部の作付けが始まりましたが、8月にきた暴風雨でまたも流失してしまいました。もはや村民による復旧は絶望的になり、土地所有者は無償で両村に提供し、借金だけが残りました。

明治20年(1887年)、県知事・郡長による斡旋で、東京の服部長七氏が復旧を図り、翌年ほぼ完成しましたが、またもや暴風雨に見舞われ決壊してしまいました。
その後は、埋立免許権も多くの人手に渡り、幾度となく計画・変更・延長を重ねた末、昭和17年(1942年)1月に56,951坪の干拓地ができました。竣工検査を受けるだけとなりましたが、竣工検査が終わらない8月、またもや暴風雨によって決壊してしまいます。
この間、廿日市・大竹間新道の築造により、明治13年(1880年)に4町1反2畝の畑地が生まれます。その内、1町6反8畝が黒川村所属になります。黒川村分は大部分が遊水地であり、昭和8年(1933年)には、国道に沿って5,700余坪の埋立地ができました。また、小方村の所属は2,391坪でした。

戦後になり、埋立は農林省の干拓事業として、昭和29年(1954年)から再開され、昭和35年(1960)に竣工しました。
埋立の面積は55,947坪で、内訳は、潮遊池が6,773坪、堤塘敷7,488坪、耕地41,685坪でした。
この農地は耕作されることなく、すぐ用途変更がされて工業用地となり、昭和36年(1961年)12月、三井東圧化学大竹工業所の誘致が決定しました。
しかし、その三井東圧化学大竹工業所も昭和51年(1986年)に撤退したため、改めて中小企業団地として企業誘致が行われ、戸田工業株式会社、大竹明新化学株式会社、中国塗料株式会社などの企業が進出することになりました。
100年におよぶ自然の猛威との戦いを経て、昭和に入り近代護岸工法の目覚ましい発展により明治新開は確立した新開地として現在に至っています。
なお、国道2号南側の防圧堤は、化学工業進出の際に安全のために作られたものです。