原爆投下の数日前、広島市内の建物疎開に各地域の義勇隊の出動が要請されていました。
大竹・小方・玖波の各町村役場にもこの作業の動員命令が廿日市地域事務所を通じて通達されていました。
各町村役場は、ただちに第一日目(8月6日)の出動者の割当てを行い、隊の編成を完了しました。
当日割当てを受けた人たちは、作業服に身を固め、所定の場所に集合しました。
玖波隊105人は玖波駅から、小方隊86人のうち26人(主に三ツ石地区)は玖波駅から、60人(主に立戸地区)は大竹駅から、大竹隊790人のうち約300人は大竹駅から、それぞれ大竹駅発午前6時10分の列車に乗り、残る大竹隊の約500人も大竹駅発6時50分の列車で広島に向かいました。
当初、8月6日の動員人数はこれよりもっと多かったのですが、前日の夕刻に命令変更があり、動員人数が少なくなりました。その結果、すぐに隊の編成替えを行う必要があったため、連絡のつきやすい町村役場に比較的近い地域の予定者に中止を要請しました。そのため、役場から比較的遠い地域に犠牲者が増えることになりました。
玖波隊・小方隊・大竹隊の先発隊は己斐駅到着後、それぞれ駅前に整列し、隊伍を組んで己斐橋、天満橋を渡り、小方隊は土橋・十日市付近へ、玖波隊は土橋を迂回して小網町へ、大竹隊は天満町・榎町付近へ向かい、それぞれ現地で当日の作業説明を受けて作業にとりかかろうとしていました。
また、大竹隊の後続隊は、己斐駅から小網町に向かって行進中で、部隊の大部分が己斐橋を渡って福島橋へと向かっているところでした。
そして、8時15分、玖波隊・小方隊・大竹隊は一瞬にして原子爆弾によって吹き飛ばされ、火に包まれました。
各隊の状況は明らかではありませんが、生存者の話によれば、玖波隊の場合は小網町の電車通りから川に沿って約200m下ったところの建物疎開作業にとりかかったばかりで、全隊員が2列に向かい合わせになって屋根瓦をリレー運搬していたところでした。
そのとき、突如、黄色の閃光と熱風を感じ、とたんに全員が吹き飛ばされ、周囲が目に入ったときは真っ暗で何も判別できませんでした。周囲がしだいに明るくなって意識したときは、他の隊員がどうなっているかまったく見当がつかない状況でした。そこで、無意識の中で己斐方面に避難する途中、小網町の電車橋を渡り、人相の変わった多数の死者と呻きながらうずくまる重傷者を随所に見ながら、正気を失いながら他の負傷者と一緒にのろのろと歩きました。
己斐につき、小学校が救護所になっていることを教えられて行くと、そこも正気を失って虚脱状態になった重傷者がいっぱいで、まるで地獄絵のようでした。
その頃、黒い雨が激しく降り始めました。
玖波隊は、誰がどうなったか知るよしもなく、一部責任者を残して、動ける者は各自無意識のままに他の負傷者と一緒に避難しました。
大竹隊の後続隊500人は、先頭の中隊が己斐橋を渡って200m~300m進んだところで、最後尾の医療班はまだ己斐橋の上にいました。生存者の話では、己斐橋を渡ったところで、はるかかなたにB29らしい一機が悠々と飛んでいったのを認めましたが、警戒警報も解除されていたので、みんな不安も覚えずに行進していました。
ところが、閃光と轟音によって全員がなぎ倒され、とっさに窪地に身を伏せ、しばらくして道路に飛び出し、周囲を見ると、一瞬でまったく景色が変わっていて驚きました。
そのとき、市街地は真っ黒になっており、渡ってきたばかりの己斐橋の向こうは軒並み倒壊し、2・3か所から火災が起こっていました。
また、隊員の多くは男女ともに顔面・手足に火傷を受け、衣服も火炎や爆風で引きちぎられ、口々に苦しさを訴える無残な姿に一変しました。
このように、一瞬のうちに混乱状態になり、やむを得ず、各自随意に引き上げることになりました。
小方隊の場合は、特に爆心地に近い土橋・十日市付近にあっただけに、その被害はもっとも多く、86人の大半が行方不明となり、路上や救護所で死亡したものと思われ、かろうじて小方にたどりついたものはわずかに十数人で、それらの人たちも一両日中にほとんど死亡しました。
玖波隊は、105人うち10人が行方不明となり、その他の重傷者はすべて帰宅できましたが、その後数日して90数人が死亡しました。
大竹隊は、小方隊・玖波隊に比べると被害は少なかったですが、それでも先発隊のうち8人が死亡し、後続隊を含めて9月10日までに84人が死亡しました。
学徒については、当時、大竹市域における旧制中学校以上の学生のほとんどは広島に通学しており、それらの大部分が学徒動員令によって広島市内の建物疎開や近郊の事業場の作業に従事していました。そのため、8月6日当日も多くの学徒が広島に行っており、多くの犠牲者を出すことになりました。
広島市における全学徒の被害状況は、当日広島市内で疎開作業、事業場作業に従事していた動員学徒は23,254人で、そのうち約27%の6,272人が死亡したといわれています。
また、これらの被爆者のうち建物疎開作業に従事していた者の犠牲がもっとも大きく、その死亡率は62%にもなります。
このことは、当日の学徒の作業現場が、雑魚場町付近(広島市役所横)、土橋付近(小網町、西新町、堺町)、旧県庁付近(水主町、中島新町、天神町、材木町)、比治山橋付近(鶴見町、昭和町)で、いずれも爆心地から1km~2km圏内にあったためです。
大竹市域の動員学徒の被害も大きく、犠牲者は120人にのぼります。地域別には大竹町62人、小方村29人、玖波町29人で、いずれも当日あるいは被爆後2週間以内に死亡しており、そのほとんどは被爆後2~3日以内に死亡しました。
原爆投下時、大竹市域の住民は、一様に広島方面に閃光を認め、その後に重圧を感じる轟音を聞いていました。ある者は入道雲のような白雲を確認しましたが、それが何かわからないまま不安な予感を抱いていました。町にはいろいろな噂が飛び交い、各町村役場は必死になって情報を把握しようとしましたが、広島方面の通信は途絶え、時間だけが経過していました。
そして、午前10時頃に大竹町役場に電話がかかり、広島市が全滅したことの通知を受けました。この電話は大竹町高杉医院からのもので、被爆した大竹町義勇隊2名がこの医院を訪れたためにわかったそうです。
大竹町役場は事の重大さに驚き、ただちに救護班を設置し、警察にトラックを依頼し、警防団などの関係者に連絡して救援隊を募りました。そして、事態を知った義勇隊や学徒の家族が町役場に集まってくる中で、医師や救援隊などはトラックに乗って続々と広島に向かいました。
この間、玖波町と小方村でも被爆者の転送によって広島市の被害が判明し、大竹町と同様に救援措置を行いました。そのため、大竹市域のトラックはすべて動員され、汽車と船も利用して人々は次々に広島に向かって行きました(当時、汽車は廿日市駅止まりとなっており、8月8日以後は上下線とも開通しました)。
最初の救援隊が広島市に到着したのは午前11時過ぎでした。このとき、まだ市中は火の海で、義勇隊などの作業現場に入ることは到底できませんでした。その頃、負傷者は続々と五日市・廿日市方面に避難しており、大竹市域の被爆者も一緒に避難していましたが、変わり果てた姿に一見誰かわからない状態でした。救援隊は、人の群れの中を血まなこになって尋ね回り、状況に応じて重傷者を付近の救護所に運んだり、あるいは大竹市域に送り届けるなどしました。
爆心地付近の主要部分が焼き尽くされた午後2時頃、玖波町救護班は初めて義勇隊の作業現場に入ることができました。しかし、そのときも観音町から先はトラックで通れなかったため、全員徒歩で観音橋を渡り、天満川の川土手に沿って小網町の現場に到着しました。そこでは、隊長らが負傷しながらも、重傷を負った隊員十数人の面倒を見ていました。救護班はトラックで運べるだけ連れて帰ることにして、死者・重傷者は船で救出するよう依頼しました。ところがその頃はまだ潮位が低く、天満川に船を乗り入れることができなかったので、午後7時になってようやくこの地の死者・重傷者を連れ出すことができ、玖波町に到着したのは午後9時頃でした。
小方村も同様に被爆者の救出にあたりましたが、義勇隊の作業現場が爆心地に近く被害が大きかっただけに捜索に手間取り、当日収容できたのは十数人だけでした。
一方、地元では、12時過ぎから負傷者が続々と帰ってきたので、救護所における応急手当が開始されました。大竹町では役場2階を、玖波町では小学校の教室をそれぞれ救護所として、医師・役場職員を中心に町内会・婦人会の協力によって懸命な救護活動を行いました。小方村は被害が大きかったので、主として広島での救援活動に重点が置かれました。
大竹町では重傷者は比較的少なかったですが、義勇隊だけでも789人も出動していたため、救護所は人であふれ、救護班の不休の治療は深夜まで続きました。
玖波町と小方村では重傷者が多く、適切な処置を施す術もなく、苦しみを訴える患者に簡単な治療を施し、励ます以外に方法がありませんでした。そして、負傷者はその夜から次々と死亡し、現場は、救出・応急手当・死亡者の処置などで未曾有の混乱におちいりました。
死亡者は翌日・翌々日にかけてがもっとも多く、家族や親族の悲しみは計り知れず、満足な葬儀もできないまま数日を過ごしました。
被爆後3日間で80人以上の死亡者を出した玖波町では、玖波町火葬場麓広場に臨時火葬場(現在の玖波中学校)を設置し、軍の協力によって朝8時から夕方5時まで死体処理を行ったそうです。
この間も行方不明の捜索は連日続けられ、各町村は炎天下の中を終日広島市内を始めとする、周辺の収容所をくまなく探しまわりました。
義勇隊の行方不明がもっとも多かった小方村では、役場職員、警防団員、被爆者家族などが4日間も始発の列車で広島に向かい、夜11時に小方に帰るという状況で、連日広島に向かった人は4日間靴も脱がず、8月9日にいったん捜索を打ち切って靴を脱いでみれば、足のいたるところにまめができ、それが潰れて血が流れていたというほどでした。
各町村が混乱の最中にあるとき、金輪島に収容されていた被爆者を大竹市域でも引き受けなければならなくなりました。
8月11日、玖波町に78人、小方村に108人、木野村に50人、大竹町に161人が軍用船で送られて、さらに翌12日には大竹町に102人が送られてきました。
各町村はこれらの転送患者を小学校や隔離病舎などに収容し、看護にあたりましたが、それはまさに町ぐるみの悲壮な看護でした。町内会・婦人会に看護要員を強制的に割り当てて昼夜を問わずに看護に努力しましたが、地元の負傷者さえも治療方法がなく、どうにもならない状態でした。毎日のように暁部隊や大竹海兵団に油薬を取りに行き、布団やその他の器材も町村民あげて補給に協力しました。しかし、これらの患者も次々と死亡し、各町村は死体を火葬する人手もない状況でした。
8月15日には日本敗戦の報に接し、これまでの張りつめた心もゆるみ、一時は虚脱したかのようでしたが、患者をそのままにすることはできず、再び気持ちを取り直して看護を続けざるを得ませんでした。
8月が終わる頃、多くの死者を出した大竹市域の収容所も、生存者が縁故を求めてしだいに去っていったので、患者数は著しく減少し、9月下旬には各収容所は閉鎖されました。
しかし、8月下旬から9月上旬にかけて大竹町の義勇隊員が原爆症特有の症状を発症して、次から次に63人が死亡し、町民に大きな恐怖を与えました。