栗谷三ヶ寺 福島侯に一本勝ち

日本史の中で大きな節目となった、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、市域にも大きな変化をもたらしました。
関ヶ原の戦いで毛利輝元が敗軍の将となり、周防・長門の二国に押し込められ、その旧領である安芸・備後二ヶ国は、福島正則の領地となりました。
福島正則が広島城に入り、領国経営に乗り出した頃、安(現在の広島市安佐南区?)のお寺に出かけたときの話が伝えられています。

正則が、住職に対して「この国をわしの思うままにするにはどうしたらよいかのう」と尋ねたところ、住職は「安芸の国を全部浄土真宗にしたらよかろう」といったといいます。

正則は、「それでは左様いたそう」と、早速家臣どもに申し付け、各村々に出向かせました。

お役人が栗谷の里に入ってみると、ここには禅宗寺院が三ヶ寺もあり、他の宗派の寺はない。これはよい仕事ができると思ったお役人は、胸を張って小栗林村の安楽寺の山門をくぐりました。

福島家の者「住職はそなたか」

住職「はい、左様でございます」

福島家の者「早速だが、領主福島侯の命により、この村に入り調査いたして居る。そこで、この寺は禅宗寺院であるな」

住職「はい、左様で」

福島家中の者「実はこの盆地内の禅宗寺院三ヶ寺を浄土真宗に改宗するよう福島侯の命を受けて参上した。ご承知いただけるな」

住職「ちょっとお待ちくださいませ。私どもこの村の三ヶ寺は、以前より毛利様に大変お世話様になっております。まして私どもと谷和の萬覚寺は、上寺が岩国横山の吉川様の居城下、永興寺様でございます。吉川様は先般、出雲の国月山富田城より移られて参り、先月檀家衆と共にお伺い申し上げたばかりでございます。如何に領主福島様といえども、はい左様でございますか、と申し上げることは私どもには出来かねます」

福島家中の者「わかり申した、それでは御免」

これは大変なことになったと、家中の者は帰り、この経緯を領主福島侯に伝えると、さすがの正則も、毛利名を出されると、なんと一言もなく「ウ~ン」と言っただけだったといわれます。

かつて秀吉の天下の時代、最も頼りとされた毛利氏です。
秀吉の幼少のころからの武将であった正則は、今ここで事がおこったら大変と、「安楽寺の和尚め、一本とりゃあがったか、ほっとけ」といったといわれ、その後何事もなかったといいます。

狭い栗谷盆地に、禅宗寺院三ヶ寺があるのは、安芸門徒の勢力下の中で珍しいとされています。

注:明治22年の町村合併の時、大栗林村・小栗林村の「栗」と奥谷尻村と谷和村の「谷」を合わせて「栗谷村」となりました。約400年前のお話ですが、文中では現在親しんでいる「栗谷」を使っています。