古い江戸時代の絵図を見ると、現在の大和橋から権現橋辺りまでは、1550年代に堤防が築かれていたようですが、青木辺りは今川(小瀬川)と、鼻操川が大和橋辺りから分かれ、洪水の度に川が移動したり、どちらかが主流になったりの繰り返しで、人の力では手がつけられない状況でした。
しかし、大竹村の住人の努力により宝永年間青木に堤防を築き、流れを鼻操川から今川を本流とする石垣組みに着手し、青木の広大な干潟の陸地化に成功しました。 その一方で、江戸時代初期から続く、大竹村と和木村との境界論争についてはまだ解決は出来ていないままでした。 小瀬川が安芸と周防の国境に定められたのは、天平6年(735年)であったと「続日本紀巻十一」に記述があります。
その後、この流域は大内氏の領国となり、安芸側は厳島神主家の支配するところで、大内氏は被官的立場にありました。また、弘治元年(1555年)、毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島合戦」以後は、一体を毛利氏が治めるようになり、国境はあってないに等しく、村々の争いごとはありませんでした。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより、安芸・備後の国は、福島正則が領地となり、かつての領主であった毛利輝元は、周防・長州に移封されました。 このことが、これまで国境を意識しないで生活していた大竹・和木の村人の間に、国境争いが生まれた原因となりました。 そして、早くも慶長11年(1606年)に、大竹村・関ケ浜村間で、磯における貝取り論争が起こり、しだいに、毛保(中州)・海苔・流木などの奪い合いにまで広がって、境界の争い発展しました。 和木の村人が暇を見ては新田開発に乗り出した「与三野地」論争では、数度にわたり乱闘騒ぎが起こり、ついに死傷者が出てしまいました。 これにより、ようやく両藩は、享和元年(1801年)になって和議により国境を定め、今川(大竹川)の中央に杭打ちが行われ、以後争いはなくなりました。 杭打ちの結果、小瀬川は青木神社付近より、河口に向かってほぼ直線になり、放水路のようになりました。
そして、享和3年(1803年)、青木新開地に守護神として、「猿田彦之尊」を勧請し、青木神社を鎮座しました。 境内には、150年後の昭和34年4月に、当神社の由緒を記した記念碑が建立されました。
青木神社鎮座紀念碑
所在地 | 大竹市新町三丁目(青木神社境内) | ||
建立年 | 昭和33年(1958年) | 石の種類 | 花崗岩 |
高さ | 118cm | 横幅 | 58cm |
表記文字(表) | 青木神社鎮座 紀 念 碑 | ||
表記文字(側面) | 昭和三十四年四月 建立 | ||
表記文字(裏) |
国史聖武記に安芸周防二国大竹川を以って国境 |