小田神社

この神社は、瀬戸内を一望できる高台、広島県立大竹高等学校の裏手の丘陵地にあります。

文禄元年(1592年)・慶長7年(1597年)の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、毛利方として参戦した小田太郎右衛門景康という武士が、帰還後に大竹村に住みつきました。

大竹村は山と海に挟まれ、耕地が乏しく、村人たちが難渋していたので、景康は、広大な干潟を活用し、青海苔の養殖技術を確立し、村人を指導して、生活の糧としたと語り継がれています。

その後、「大竹の青海苔」として広く知られるようになりましたが、昭和30年代初め頃、工業化とともに、青海苔の生産は姿を消しました。

また、慶長年間、大竹村と油見村の境界争いは絶え間なく続きました。

景康は、仲介役となり尽力しましたが、慶長12年(1602年)5月5日、鳥越の岡で暴徒に襲われ、無念の死を遂げてしまいます。

これを機に両村の境界が定められ、当時、藤左衛門という人が遺体を村の境に埋葬し、松を植え墓標としたと伝えられています。

この松は、昭和20年代初めに枯れてしまい、現在は根元の部分のみ残されています。