江戸時代に入り幕藩体制の中で、大竹村と和木村の国境論争は激しくなり、地域住民に大きく関わるようになりました。争いは年を追うごとに厳しくなり、「与三の地」論争ではついに死傷者が出てしまい、ようやく芸防両国の藩主立会いの中で、今川(小瀬川)の中央線に杭を打つことにより、200年に及ぶ国境、貝取り、毛保などの争いは終わりました。
両村では、それまで個々に井堰を作り田畑に水を入れていましたが、いずれも洪水時に流され難渋していました。江戸後期に入り、沖新開・中新開・郷水新開など、新田開発が盛んに行われるようになり、そして天保3年(1832年)には、広大な小島新開が完成し、灌漑用水路の必要に迫られました。そこで、両村は協力して、弘化3年(1846年)に小瀬川をせき止めるという大事業に乗り出しました。
この事業により、川幅54間(約97m)に52本の角型の巨材が立てられ、川の中央に舟の往来のためと水圧を緩めるために2間(約3.6m)の流道が作られました。
この大事業を成し遂げたことは意義深く、広島側では関わった人を讃え、明治28年2月に立派な碑が建立されました。山口県側では、瀬田口に親子2代に渡り貢献した、「三分一源之丞」の碑があります。
この堰は、以来100年間持ちこたえ、両村に多大な水の恵みを与えてくれましたが、昭和26年のルース台風で倒壊してしまいます。しかし、すぐ改修に乗り出し、昭和28年には、鉄鋼製の可動式井堰が完成しました。
その後、戦後の経済発展に伴い、生活環境は一変し、田畑の急激な減少と住宅建築の急増で、市域では灌漑用水の供給がほとんど必要なくなり、川を堰き止めるということは、工業用水の取水と、海水の上流への逆流を食い止めるという役割に置き換えられていきました。
現在の堰は、3代目で「小瀬川中市堰」と正式名称が付けられ、今までの堰より下流約100mの所に「魚腹形式銅製転倒ゲート」として、平成6年2月に完成しています。
かつてここには、「会社橋」と呼ばれる橋がかかっており、洪水時には木製板の橋が浮き、ワイヤーで止められた橋が両脇に流れ着く仕組みになっていました。洪水が治まるとその板をまた橋脚の上に乗せるという仕組みでした。昔の人の物を大切にするという生活の知恵をこの橋は教えてくれていました。