厳神社は、祭神「伊邪那岐神(イザナギノカミ)」・「伊邪那美神(イザナミノカミ)」・「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」で、小方地区と谷和の河内神社、木野の大元神社を含め、13社のお祭りなどの神事を司っています。
境内には多くの歴史的な文化財が点在しており、散策するのがとても楽しい神社です。
由緒や沿革など古い伝記は、慶長年間(1596年~1614年)に焼失して不詳です。
しかし、「応安2年(1369年)再建」という棟札が残存していることから、南北朝時代にはすでに当地区に鎮座していたことがうかがえます。
伝承によれば、福島正則が広島城主であったとき、亀居城の守護神として尊崇極めてあつく、氏神の例大祭などには自らが幣帛料(へいはくりょう)を奉献していたと言われています。
その当時は城の本丸に鎮座していた神社も、亀居城破却の後には現在の地(亀居城妙見丸)に遷座されており、また厳宮大明神(ごんのみやだいみょうじん)と称していた社名も、明治になって厳神社と改称され、現在に至っています。
注連柱(しめばしら)
神社に一歩足を踏み入れると、そこに建つ注連柱(標柱)は、大竹市内では最も規模の大きなものの一つです。
明治39年5月、日露戦争凱旋記念に多くの帰還兵士によって建てられたものです。
右の柱には「徳被馬蹄之所極」、左の柱には「化照船頭之所逮」と彫られています(古事記の序文から引用されています)。
参道の右には、厳神社が管轄する神社の標石が並んでいます。
参道石段は、大瀧神社とともに市域ではもっとも規模が大きく、素晴らしい石組みをした参道です。
狛犬
市域の神社には、社の番をするという意味を持つ「狛犬」が必ず迎えてくれます。
これは阿吽の呼吸を意味したもので、一般的には右が「阿」、左が「吽」と定められていますが、この神社の狛犬は、「阿」と「吽」が逆になっています(これは市域には他にも一箇所見られますが、氏神様ではここだけです)。
建立は、弘化2年(1845年)9月吉日となっています。
境内の祠
市域では、この厳神社のみに見られる祠が数か所祀られています。
これは、小方村が漁業の村として栄え、内海に船を漕ぎ、その安全を祈願するため、個人が境内を借りて建てられた祈願社で
両部鳥居(りょうぶとりい)
鳥居の形式は多種多様で、明神鳥居、稲荷鳥居、春日鳥居、八幡鳥居などがありますが、ここの鳥居は宮島の厳島神社の大鳥居と同型で、両部鳥居です。
特徴は、柱の頭に台輪を載せた稲荷鳥居に、四脚の控え柱を従えていることで、これを稚児柱と呼んでいる。
木造の鳥居は良く見かけますが、石造りの鳥居は市域でも数少なく、規模も大きく重厚な姿をしています。
建立は、大正15年(1926年)10月吉日となっています。
力石
長い楕円形のもので、石には「三十八〆」(142.5kg)と刻まれ、台座の上に建てられています。
これは、江戸時代から明治にかけて、若者たちが神社などに集まり、力石を抱えて力量を競いあって遊んだもので、遊びの石造物として現在でも各地で大切に保存されています。
県内でも尾道などに多く残され、大竹市域は県内ベスト5に入る8個が残されています。
【遊び方】
一つに、石を地面から少しでも離すことが出来るかを競う方法。
二つに、腹の上に乗せることができるかを競う方法
三つに、腰あたりまで上げて、どれだけ歩くことが出来るかを競う方法
競う方法は、いたって簡単ですが、これが遊びと体力づくりになっていました。
所在地 | 大竹市小方一丁目(厳神社境内) | ||
石の種類 | 花崗岩 | 重量 | 142.5kg |
高さ | 66cm | 横幅 | 34cm |
絵馬
拝殿に上がり、一つひとつ丁寧に観て行くと、大変貴重な絵馬が幾つもあります。
大正5年に操業した、市域第1号の企業誘致「大倉組山陽製鉄所」の絵馬や年号の入った最も古い絵馬(1770年頃)、明治の頃の隆盛を極めた俳句の絵馬などを見ることができます。