言い伝えによると、593年の推古天皇即位の頃、厳島神(宗像神内の市杵島姫命)が、九州の筑紫の国からはるばると嬰児(2歳くらいの幼児)を連れて中国路へのぼってこられました。
「苦の坂」峠にさしかかったとき、道中の疲労が重なり、「えらや 苦しや この苦の坂は、金の ちきりも 要らぬもの…」とつぶやき、それまで大切に持って来られた機織り機の部品である「榺(ちきり)を投げ捨て、身を軽くして峠を越えられました。
榺は、峠を転がって池にはまったと思われて、それ以来人々は、この峠を「苦の坂」と呼び、池を「榺池」と呼ぶようになったと言います。
そして、「榺池」を埋めて、その上に社を建て、市杵島姫を祭神として、「榺池神社」と名付け、御神体には、池にはまった榺を祀ったと言われています。
汐涌石(しおふきいわ)
文政2年(1819年)発行の国郡誌木野村には、榺池神社の基礎となっている虫喰岩の穴から、旧暦6月17日の厳島管絃祭の夜には、汐が涌き出るという話が記録されています。
木野二丁目榺池神社辺りで海抜約2.5mといわれ、元町の井堰が堰き止められていなければ、満潮時にはこの辺りまで潮が到達することから、このように伝えられるようになったと考えられます。